暴君の素顔

最終更新
2005年10月05日

※時系列と事実関係に食い違いがあったので2005年10月5日に修正・加筆しました。董卓が遷都を開始したのは開戦直後。董卓が引き上げたのは曹操が惨敗した後。つまり曹操が単独行動をおこなったのは、長安遷都を完了しつつ洛陽に駐屯していた董卓軍に対してということになります。

はじめに

「文字が出来て以来これほど酷い人間はいなかった」と記されるほどの暴君董卓。三国時代の火付け役で、演義読者にとっては「董卓の暴政に正義の諸侯が立ち上がる」のが大方の第一話だと思います。十常侍がどうのとか桃園決誼がどうのというのは悪の権化を倒す正義のヒーローが登場する前置きで、三国志のスタートは「黄巾の動乱を利用して権力を握った董卓を諸侯がどう倒すか?」であると思っている人も少なくないでしょう。

なるほど董卓は時の皇帝を恣意的に排除して自分の好きな皇子を王座につけたり、禍根を残さぬようにと旧皇帝とその母親を暗殺したりと悪行を重ねました。しかしながら「董卓=悪の帝王」VS「劉備&曹操&孫堅ら各地の諸侯=正義の味方」という認識は正しいと果たして言えるでしょうか?

今日は悪魔の使者として描かれることが多い董卓の、史書に見られる本当の姿を探っていきたいと思います。

董卓という人物

董卓は字を仲穎。涼州隴西郡臨洮県の生まれである。若くして弓馬を極め、性格は豪胆にして快活。好奇心旺盛で異民族(おそらく羌族)の集落にも足を伸ばし、よく交流を交わしていた。義侠心に溢れ、取り巻きも多く、地方では「イイ兄ちゃん」としてそれなりに名が通っていたようである。そんな董卓の若かりし頃を象徴するエピソードとして次のようなものがある。

董卓の家に一頭の牛がいた。ある日周囲の族長たちが董卓の家を訪れた際、董卓は〔彼らをもてなすために〕その耕作用の牛をつぶして歓待した。農耕器具も無い当時において牛は貴重な労働力であり資源である。にもかかわらずそれをさらりとやってのけた董卓の心意気に感動した族長たちは、後から1000頭もの家畜を贈ってこれにこたえたという。

また董卓の性格をあらわすものとしてこんな話もある。これは任官後の話だが、史書曰く

「この手柄は俺のものだが、褒賞の品は兵士であるお前達がもらうべきだ」

(後漢書:董卓伝)

これは異民族討伐の任を果たした功績として朝廷から絹を賜った時の話。丁重に礼を述べた後で董卓はその褒賞の品を全て配下の兵卒にあげてしまった。後の悪評から考えると想像もできない一面だが、あるいはこちらの方が董卓本来の姿なのかもしれない。

戦争となればいの一番に死地に立つのが前線の部隊である。当時の軍隊は民間から「調達」した歩兵が主力なのだから、要するに「下々の苦労」だとか「現場の苦労」だとかは、全て民衆上がりの権力の無い一般下級兵に回ってくる。手柄は自分のものでも褒美を受けるべきは現場の人間だと言える人間は、この時代にどれほどいたか分からない。はじめからエリートコースを歩める「名家のご子息」達とは一線を画している。

董卓と皇甫嵩

董卓は一度皇甫嵩と共に仕事をしたことがある。扶風郡(涼州)の陳倉城が黄巾に包囲された時だ。事態が急を要することを聞いた朝廷は、急ぎ族討伐隊を派遣して乱の鎮圧を命じることにした。この時命じられたのが賊討伐のプロフェッショナルである名将皇甫嵩と、今回の主人公董卓である。

さて朝廷から陳倉救援を命じられた二人だったが、陳倉到着後、即時決戦を主張する董卓に対し皇甫嵩は首を縦に振らない。董卓は「知者は好機を逃さない。勇者は決断を躊躇わない」と言った。要するに戦うなら今だからさっさと攻めろということである。しかし皇甫嵩は陳倉の守りが固いことを理由に長期戦を主張。このまま包囲中の黄巾を攻めても勝てるかどうかは分からないから無理な攻めは下策だ、疲弊するのを待とうとした。ちなみに陳倉とは数十年後にカク紹なる人物が30万の諸葛亮軍を、わずか3000で20日間以上に渡って防衛したという強固な地である。

冬から春にかけていまだに落ちない陳倉城の硬さに手を焼いた黄巾軍は、遂に陳倉城の包囲を解いて撤退を始めた。今こそ好機と皇甫数は追撃を命じる。すかさず董卓が言う。「兵法には「帰心にかられた敵に近づくな」とある。帰ろうとする兵を無理に妨害すると死に物狂いで突破しようとする。今攻めるのは危険なだけだ」と。しかし皇甫嵩はそれを否定する。「敵は本当に攻めあぐねての撤退であって戦略的撤退とは話が違う。もはや戦えるだけの戦力は有していない。叩くなら今を置いてないのだ」と。

結果放置を主張する董卓を無視した皇甫嵩は自分の部隊だけで追撃を開始し、連戦連勝。完全に手柄を持っていかれた董卓は地団太を踏んで悔しがり、それ以後董卓は皇甫嵩に恨みを感じるようになったという。皇甫嵩の名称ぶりが現れる一面だが、それは当然だから良いとしてもこの時の董卓の発言については考察の余地がある。

董卓と韓遂

実はこの黄巾戦にかぎらず、董卓は涼州で負け戦を演じている場面がいくつかある。もっとも負け戦と言ってしまうと語弊があるが、「勝てるはず」の戦いなのに「勝ちが不徹底に終わる」場合も少なくない。異民族制圧のプロとして中央でメキメキと頭角を表す董卓らしからぬことだが、実はここにひとつ面白い仮説がある。

史書に詳しければ黄巾の乱の前に董卓と孫堅と陶謙が地方へ叛乱鎮圧部隊として派遣された事件をご存知かと思う。時の大将軍:何進は自分で鎮圧部隊を派遣することなく、後漢有力者に強大な権限を与えて三方へ兵を派遣した。これが後の混乱を大きくすることになるとは思ってもいない何進であったが、荊州には孫堅、并州には陶謙。そして涼州には涼州を良く知る董卓が派遣された。しかしこの時の戦闘の相手が問題である。

韓遂。字を分約。演義では馬騰の義兄弟としてともに戦い、馬騰死後は息子の馬超を盛り立てて曹操と戦いながらも、曹操軍の参謀である賈詡の離間の計にかかった馬超に右腕を落されたあげく曹操軍に寝返った人物。後半は演義の創作であることは問題無いとして、まだ張角が黄巾党首として台頭する前から韓遂の名が挙がっていることに注目したい。

結論から言ってしまうと、董卓と韓遂は裏で手を組んでいたのではないか?という話である。それだけでは無い。馬騰にしろ馬超にしろおよそ涼州人が中央に反旗を翻す時には必ずといっていいほど韓遂の影がある。しかし彼が表舞台に出てくることはない。いつも副官、No2として涼州の地にいる影の実力者。彼の事を知らない人のために西暦185年頃から順を追って説明してみよう。

涼州という土地

中国は広い。当たり前だが広い。当時の政権は平地である洛陽であるが、遠く西の山奥涼州へ中央から指令が飛ぶにはそれなりの日数がかかる。また涼州は匈奴の勢力が及ぶ地でもあり、いわゆる中央政権にとっては「手放すには危険だが統治するには骨の折れる僻地」であった。もっとも匈奴の侵攻を許すと、基本的に異民族は中央の兵士より屈強なのだから危険である。そういう意味で西方の防衛戦として涼州は重要地域であった。

とはいえ匈奴の活動が衰えている時期にまで頑張って統治する必要は無いというのもうなずける。とにかく涼州は遠い。実際に中央で政策を決めても実行に移すのに何ヶ月ものズレがあるようではほとんど地方の役人に任せてしまいがちになる。中央の監視の目も届きにくくなるし、ちょっとした実力者なら簡単に支配できる。何かにつけてこうるさい中央に対して地方の実力者が起こす行動は単純に叛乱である。そのまま中央に攻めても良いし、支配地にあらたな独立国家風に君臨しても良い。

叛乱の産地

そんなこんなで不穏な空気が満載の涼州で、185年大きな叛乱が起きた。首謀者は韓遂である。韓遂は同郷の辺章をたきつけて地方の有力者に仕立て上げ(もともと辺章も有力者であったがNo1にした)自己の勢力をも加えて大規模な叛乱を起こした。起こしたというより「たまたま起きていた羌族の叛乱」に便乗した形なのだが、どちらにせよ韓遂は辺章を筆頭として、十万余りの大規模な反乱軍の副官の地位に居座った。前代未聞である。

中央は大慌てした。時は暗君として有名な腐敗の源泉:霊帝の時代。官位売買制度を導入するという歴史に名を残すほどの暴挙を成し遂げた愚君の時代に、中央には才能ある人間よりも金のある人間が溢れていた。金で官位が買える時代。中央に人がいない現状は若かりし曹操をして「なんという時代か。これでは才能のある人間など育ちはしない」と嘆かせた程であったが、案の定というべきか討伐軍統帥も金で司空の地位を買った張音だった。

結果は惨敗。戦闘のスペシャリストに典雅な世界しか知らない指揮官が勝てるハズも無く、本隊は別働隊の董卓を除いて壊滅するという散々なありさまだったと言う。

中央はとにかく焦った。先の敗戦の前に涼州放棄論が出たことを思い出しながら「いっそ涼州は諦めるが良いのか」というムードになりかける。そんな中で、涼州では大きな異変が起きた。

反乱軍のリーダーである辺章が、なぜか死亡したのである。病死であるとか、内輪もめの末に殺されたとか言われているが詳細は不明。とにかく涼州叛乱軍は指導者を失ってしまった。

辺章が死亡した以上は新たに首魁を選ぶ必要が生じる。となると当然のように韓遂がその任に着くと思われそうだが、なぜかここで、新たに王国【おうこく】という男がその任に着いた。では韓遂はどこにいったのかというと、やはりNo2の座にいるのである。そしてこの時期にあの馬騰【ばとう】が西涼反乱グループに加わる。

新たな指導者を得た涼州軍であったが、中央から派遣された名将皇甫嵩に撃退されてしまい(*1)、その責で王国はトップの座を追われてしまった。さあ、ではいよいよ韓遂の出番かというと、今度は閻忠【えんちゅう】なる男が第一座についた。この閻忠という男は若き日の賈詡の才能を一目で見極めるなどなかなかの智恵者ではあったが、使命感が先に立ったのか分不相応だったか、発奮しすぎて病死してしまった。

この後も韓遂は馬騰や、馬騰死後はその息子の馬超を表看板として首座につけ、自身は「叛乱軍の二番手」という位置を確保し続けた。絶対に表に出ない影の実力者、30年にわたって涼州を裏で操っていた真の実力者、それが韓遂の真の姿である。では、話を董卓に戻そう。

董卓と韓遂

涼州の反骨精神は中央への憧れもあったのかもしれない。いつか自分達が中心になりたい。天下を取りたい。そうでなくても少なくとも辺境の地として蔑まれがちの故郷涼州になんらかの恩恵を与えられるような政治を行いたい。地縁共同体『里』の価値観が強い意味を持っていた当時において中央で力を得るというのは大変重要な意味を持っていた。

地方の人間が中央にコネクションを持つにはいくつかのやり方がある。一つには地方で力をつけ中央へ実力を持って攻めあがる。すなわち叛乱である。もっとも分かりやすく、かつ危険な、ハイリスクハイリターンな方法だ。もうひとつはあらかじめ中央の「内部」に味方を作る手法である。実力を持って外部から攻めあがっても激しい抵抗に遭う危険もある。しかし内部からの占拠となれば権力争いや謀略戦に勝てばなんとかなりそうだ。人心掌握に長けている「頭の戦い」に強い人間を送り付けられれば上手い具合にことが運ぶかもしれない。

それではどちらを選ぶかということだが、同じことなら二つとも連携して行うほうが効果があるのは当然であろう。そこで前者は韓遂率いる(実際には辺章あたりを表に出しているが)実働部隊にして、後者は董卓をもってその役割を任せていたのではないだろうか。董卓の義侠っぷりは涼州では広く知られていることであり、人当たりがよく頭の回転が速い董卓を内部工作員として送り付けられれば「涼州が日の目を見る」機会もそう遠くないであろうと見ていたのであろう。

事実董卓はなんども涼州の精鋭相手に戦闘を起こしているが、荊州に派遣された孫堅や并州に派遣された陶謙らとは少々戦い方が異なる。董卓軍と涼州軍、両者の間では本気の殺しあいが行われることがほとんどなかったのだ。どちらかというと地方で暴れる涼州軍を相手に手を焼いた中央政府が董卓に鎮圧を命じ、董卓出撃とあわせて涼州軍が上手い具合に撤退するという一見すると八百長試合を繰り返していたのである。董卓軍が出れば涼州軍が退き、涼州軍が出れば董卓軍が出動する。もっとも「退かせた」だけでも西の脅威を取り除いたことには変わらないのだから中央はますます董卓の勇将振りに信を置く。

もっとも董卓が単に戦上手であったために涼州勢が退いたとも見れる。どこの馬の骨とも分からない張音などならいざしらず、異民族との駆け引きに長じている上に戦闘に関してはスペシャリストの董卓を相手に真面目に戦うのも馬鹿らしい。しかも同郷である。おそらく董卓の軍も涼州人で構成されているだろうから、下手をすると自分の親戚がいるかもしれない軍を相手取るのはやりづらいだけだろうし、董卓もわざわざ涼州まで攻めあがって掃討作戦を展開するというようなことも無かろう。それなら軽く退いておこう…という価値判断が働いただけかもしれない。

しかしここはあえて「二人が手を組んでいた」ことにしておく。というのもどうも董卓政権奪取の後の行動に「韓遂近し」のものがいくつも見えるのだ。

長安遷都の怪

反董卓連合軍

董卓が政権を牛耳ったとして、袁紹以下錚々たるメンバーが朝廷に反旗を翻した。あえて今「朝廷に」と言ったのには意味がある。中国は古来より「支配者の近くにいる人間が権力を握る」のが至極当然のことであった。支配者がそれを潔しとしない、たとえば秦の始皇帝のような人物であれば話が別だが、通常は幼い皇帝を老獪な人間が補佐する一種の傀儡政治が伝統的に行われていた。そういった歴史的背景のもとで、皇帝の庇護者である董卓に剣を向けるというのは朝廷に剣を向けるのと大差ない。

宦官殺戮の混乱に乗じて幼帝を擁した董卓を悪者扱いしているのは、単に「出遅れた」人間の妬みであろう。事実何進にしろ誰にしろ、幼帝の外戚として権力を握る事実上の皇帝は歴史上いたるところにいた。董卓に非があるとすれば単に彼が帝の外戚でなかったという一点に過ぎない。

意気上がる反乱軍だが、度重なる異民族との戦闘で純粋な精鋭として鍛えぬかれていた董卓軍に敵う部隊は無かったという。数は集まれど所詮は烏合の衆。陣中で酒など飲みながら「やぁやぁ」と大声を出すくらいが関の山。口では反董卓を叫んでみても、いざ戦闘になると後ろへ下がってしまう。それもそのはずで、諸侯は戦が終われば地方で独立することを考えているから自分の兵士を失うのが面倒に思っていたのである。唯一士気があったのは「漢の忠臣として死のう」と思っていた曹操と、忠義に篤い(むしろ野心家か)孫堅くらいであろう。なお劉備はこの戦いには参戦していない。

演義では関羽以下三国志のヒーローたちが董卓軍を次々と追い詰めるが、全て創作であることは疑いようが無い。実際に董卓軍と本格的に矛を交えたのは地方の賊討伐の専門家であった孫堅ぐらいのものであり、これも引き分け痛み分けで決着がついている。後は并州討伐部隊を指揮していた陶謙くらいのものだが、彼の出番はあまり無かったようだ。

同じく戦闘のプロフェッショナルである孫堅軍以外での戦闘では董卓軍が連戦連勝。雅な生活から地方の反乱は討伐部隊に任せっきりであった袁紹以下旧後漢勢力が勝てる相手ではなかったとは史書が記すとおり。しかも董卓は反乱勢力では1,2の力を持っていた丁原の并州騎兵部隊を呂布ともどもまとめて取り込んでしまった。もはや董卓に勝てる相手はいない。

それでも長期間にわたる包囲戦にいい加減うんざりしたのか、董卓は長安への遷都を提案した。当然帝の周囲は猛反対する。遷都はただの引越しではない。政治の中枢が移動するのだから危険が付きまとうし、何より金と労力がかかりすぎる。しかし董卓はここで「韓遂の名をあげて」政府高官を脅している。結果脅しに屈したのか実力で遷都を開始したのかは分からないが、董卓は長安への遷都を開始する。そして軍勢は洛陽にとどめ、反乱軍に対応した。

董卓軍が強いというのは当たり前としても、それ以前に反乱軍自体にやる気が見られないのもまた事実であった。それは後の董卓追討戦で逆襲されて舞い戻ってきた曹操の嘆息にも現れている。口では良いことを言っていても、その気が無ければ仲間とは言えない。胸に秘めたものを共有できないのであれば朋友とは言えない。そのあまりのやる気無さっぷりと曹操の一人プレイは魏書曹操伝に詳しく載っている。

董卓の兵士は強く、袁紹らをはじめとして先に進もう(=戦おう)とするものはいない。太祖〔すなわち曹操〕は言う。「大義の兵をあげ、もって暴虐の軍を討とうと〔我々は〕立ち上がったのだ。我々はこんなにも兵士をそろえたのに、何を迷っているのだ!」

〜(中略)〜

天は董卓を見離した。いま一戦すれば天下は定まる。この機会を逃がしてはならない!」

卓兵強紹等莫敢先進。太祖曰。挙義兵以誅暴乱、大衆己合、諸君何疑。 〜中略〜 天亡之時也。一戦而天下定矣、不可失也。

(魏書:曹操伝)

理路整然と説く曹操に対してまったくやる気の無い反董卓連合軍。しかし、親友である張邈【ちょうばく】以外にそれらしい賛同者は出なかった。張邈自身、どちらかというと、曹操が親友だからという理由で協力した節がある。同じく親友のはずの袁紹は全く協力する気配がない。袁術においては言うまでも無い。

曹操は張邈が出してくれた衛茲【えいじ】という武将も連れて董卓追撃戦を展開した(*2)。しかしそこは名将揃いの董卓軍である。曹操は統率に優れた徐栄【じょえい】の軍によって袋叩きに遭った。数多くの将兵を失い、自分の愛馬を失い、従兄弟の曹洪の馬をもらって命からがら逃げたという散々な有様である。しかし徐栄もさすがに名将だったのだろう。曹操軍が寡兵であるにも関わらず昼夜ずっと奮闘したため、「曹操は手強い」として追ってはこなかった。曹操は酸棗【さんそう】に帰還した。

太祖〔すなわち曹操〕は酸棗に帰還した。そこには10万を越える兵士がいたが、日々杯を高くして車座になって酒を飲んでいるという有様であり、「どうやって進軍するか」とか「どうやって攻略するか」などを真面目に考えている者はいなかった。曹操は彼らのやる気の無さを責めつつ、一計を案じた。

「諸君、よく聞いてくれ。私に良い考えがある。まず、勃海軍(※袁紹軍)は、河内の人間を引き連れて孟津に進んで頂きたい。そしてこの酸棗の諸侯らは〔西の〕成皋を守備したうえで敖倉を奪い、さらに轘轅と大谷の地を塞いでこれら険峻要害の地を制圧してほしい。そして袁将軍(※話の流れから袁術のことと思われる)は南陽の軍勢を率いて丹水、析県に進んでもらい、武関(長安と南陽の間にある関所)を越えて三輔(長安)に圧力をかけてくれ。

〜(中略)〜

今正義の軍をあげておきながら、あれこれと余計なことを考えて進まないというのであれば、我らは天下万民の信用を失うぞ。諸君らは恥ずかしくないのか。」

太祖到酸棗。諸軍兵十余万。日置酒高会。不図進取。太祖責譲之、因為謀曰。諸君聴吾計。使勃海引河内之衆臨孟津。酸棗諸侯守成皋、拠敖倉、塞轘轅、大谷。全制其険。使袁将軍率南陽之軍軍丹、析、入武関。以震三輔。 〜中略〜 今兵以義動、持疑而不進。失天下之望。窃為諸君恥之。

(魏書:曹操伝)

董卓包囲網を戦略的に完成させるという壮大な曹操の妙案。しかし彼らは是としなかった。要するに彼らはもう帰りたいのである。結局、董卓討伐連合軍という名の反乱軍は瓦解した。その様を見たのかどうかは知らないが、初平二年(西暦191年)の四月、董卓は軍勢を長安に引き上げた。結果、孫堅が頑張った以外は曹操の一人相撲で終わったのである。

長安帰還

さてなんとか長安への帰還を終えた董卓であったが、以後董卓はなぜか西への防衛策をほとんど採っていない。反董卓連合軍が霧散した以上は単独勢力である韓遂など恐れるに足らずとも見れるかもしれないが早計である。袁紹ら戦闘に関しては素人の軍を相手にするのとはわけが違う。相手は屈強な西涼の精鋭部隊。涼州軍が強大な勢力であることは今までの経験上董卓が一番良く知っている。にもかかわらず彼は対西政策を採っていない。

それどころか「長安に戻った以上は安心だ」という油断とも言える態度。普通なら韓遂の脅威が一段と近づいたのであるからもっと危機感を覚えても良さそうなものだが、逆に董卓は「長安に遷都が完了したことで安心していた」節がある。もし董卓と韓遂が本当に敵対していたのであれば、董卓がこのような状況で安穏と胡座をかいてはいられない。更に言うと、帝を長安に移動させておきながら洛陽で反乱軍を迎え撃つこと自体がおかしい。董卓が洛陽にいる限り長安は空なのだ。もはや両者の間に何らかの関係があったと見るのが自然である。

また董卓が長安に移ってからというもの、185年から幾度となく中央に反旗を翻していた韓遂の動きがぴたりと止む。これもおかしい。董卓の恐さを知っていればこその深謀遠慮かもしれないが、帝が、権力がもっと近くに引っ越してきたにもかかわらず全く行動を起こさないというのも妙な話だ。董卓軍と韓遂軍の息を合わせたかのような動き。董卓が涼州から送り込まれた内部工作員のリーダーであったとするのは早計だろうか。

并州勢の反乱

長安に遷都が完了して安心したのも束の間、政治の中枢にあてていた王允が董卓を暗殺してしまう。朝廷への忠義からなのか野心からなのか、あるいは単に并州と涼州の派閥争いの末かは議論の余地があるものの、義理の息子として用心棒として引き入れた呂布と王允のタッグに董卓は破れた。

この時、何度も董卓自身への凶報を予知する出来事が立て続けに起きていたが、そういった話に弱い董卓と李儒のせいかあるいは因果か、董卓は王允の姦計にはまって命を落とした。董卓の腹に蝋燭をたてて火を灯したところ、董卓の油で火は三日三晩燃え続けたとある。董卓の野望は、実にあっさりと消えてしまったのだ。そして馬騰・馬超をはじめとした涼州勢が静かに行動を再開する。まるで董卓の死を待っていたかのように。

結びに

史書に見られる董卓像、いかがでしたでしょうか。今回はなるべく董卓の負の面には触れずに良い面を中心に取り上げています。したがって彼が洛陽や長安で働いた略奪や食人などの悪行の数々には触れていません。というのは悪行に関しては演義も史書も大差ないので、ここであえて記す必要もないと考えたからです。

三国志演義の影響が大きいためだと思いますが、董卓はゲームやアニメの「魔王」的存在として描かれることが多いように思います。しかし冷静に史書を読んでいると董卓だけがそこまで悪者扱いされる理由が出てきません。恣意的な政策を行ったのは歴史上に董卓かぎりというわけではありませんし、皇位を力で変更したのも無理矢理王位を奪うことに比べてそれほど危険な行為とも思えません。

事実董卓が皇帝を変えたのは自分が実力者として裏の支配人となるためであったかもしれませんが、霊帝をはじめ暗君続きで乱れに乱れた血統を正した点から見れば、むしろ正しい選択であったのではないか?とも見れます。少なくとも弁皇子か協皇子かと問われれば、皇帝の資質を備えた協皇子が首座につくのが相応しいありかたであったでしょう。董卓に非があるとすれば、彼が歴史上の「勝者」でなかったという点につきます。

しかし、三國志での書き方や後世の評価を見ると、董卓はやはり悪者ということになります。

中国史においてその人物の善悪を判断するには神がかり的なものを利用することが多いです。もっとも我々がそうだという意味ではなく当時の人がそうだという意味ですが、たとえば君子となるべき人間は(生まれながらにその資質を持っているため)生れ落ちる前に神々が懐妊中の母親のもとに降臨し、受胎告知をします。あるいはどこそこで麒麟が出たとか鳳凰が確認されたとか、なにやらめでたいものが発見されることも多いです。曹丕や孫権が帝位につく前にもこういった瑞兆に関する記述がありますね。

それでは董卓はどうだったでしょうか。董卓は若かりし頃のエピソードはさておき、そういった神がかり的な吉兆は何も起きていません。唯一特殊な記述があるのは死んだ後に腹に蝋燭を刺して火をつけたら三日三晩燃えたという点ですが、実はこれが「董卓が悪者であった」という意味を示します。

中国においては3という数字は安定を意味します。詳しくは魯粛の講-4を見てもらえれば分かりますが、「三日間燃えた火」というのは「三日経って消えた火」と読み替えることが出来ます。董卓が死に、浄化の炎が三日間燃え続け、消えたという流れですね。董卓が死んで三日目で炎が消えたという記述は、董卓の死によって世の中が安定の方向に向かったことを意味します。死んだことを喜ぶわけですから、やはり董卓は悪者なのです。

おまけ:迷信とわらべ歌

董卓が暗殺される少し前、董卓の死を予言するわらべ歌が流行りました。さらには呂布を危険視するよう注意を喚起する行動を起こす奇人も現れました。史書では、董卓も李儒もその二つの「予言」を見抜けなかったために死への階段を昇ることになったことになっています。しかしこれは「死人に口無し」を利用したこじつけ後付け話では無いでしょうか。

当時の人間は迷信深く、神を信じ、竜を信じ、仙人を信じ、不老不死と予言と運命と易と五行八卦を信じます。信じるものが沢山あって大変ですが、これらは「超人的なもの」としてひとくくりにできる代物です。

董卓が死亡する前に董卓の死の予言が出回ったことについてですが、今回のように誰かが死亡するとそれを予期していたかのようなものが事前に描かれるのは中国史においては珍しくありません。これは後世この記述を読んだ人間が「あぁ事前に予言があったんだな。それを見抜けなくて死んだのか。さすが予言者はすごいな」となるのを期待してのものと思います。

演義ではこれら「神秘的」「超人的」思想がおおっぴらに記述されます。夷陵で快勝した陸遜をあらかじめ作っておいた迷路に誘い込んだり、蜀を滅ぼした鄧艾(と鍾会)の運命を予期して石碑を彫った諸葛亮の話などを聞くと「そんなバカな」と思うでしょうが、これは裏を返せばそのような「超自然的」なものを当時の人間が信じていた、あるいは信じようとしていたことを意味しているのだと思います。

参考書籍
*1 皇甫嵩との戦い

察しのいい読者なら分かると思いますが、実はこの時の「皇甫嵩との戦い」というのが先にあげた「知者は時に遅れず…」の戦いです。常に異民族(羌族)討伐で名を挙げていた董卓らしからぬ言動に首を傾げつつも、張音が統帥であった西方討伐戦で董卓の軍が「唯一」壊滅を免れたことや、ここでの対王国戦で董卓が進軍を怠ったのにはなんらかの理由があるのかもしれません。

*2 忠臣として死すべし

董卓が帝を洛陽から長安に送り込んですぐ、曹操は袁紹をはじめとした諸侯に董卓追撃を提案します。しかし諸侯は立ち去るかもしれない董卓軍を相手に自分の兵士を失うことを嫌がり、首を縦に振りません。すでに諸侯の心中は自勢力の拡大へと発展しており、そこには漢の忠臣と呼べる者はいませんでした。

諸侯の隠しようの無い野心を目にした曹操は唖然とし、単独で追撃を開始、大敗します。三国演義では、酸棗に戻った曹操は諸侯に捨て台詞を残して場を立ち去っています。曹操が漢の忠臣として死ぬという夢を捨て、本格的に天下取りに向かおうとするきっかけとなった事件です。

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