治世の姦賊、乱世の英雄

最終更新
2004年 3月 3日

宦官の孫と呼ばれた男

曹操。字を孟徳。小字(幼名)を阿瞞と言い、別の名を吉利と言う。漢の相国であった曹参の子孫にあたる。大国である魏の土台を一代で築き上げるという偉業を成し遂げ、最後は王位まで登りつめた人。その後を継いだ曹丕によって武王とされる(その後曹丕が皇位にのぼったため武帝となる)。

曹操は本来は夏侯姓を名乗るはずであったが、曹操の父が、宦官である中常侍の曹騰の養子になったため曹姓を名乗るようになった。そのため曹操を罵倒する者は揃って彼のことを「宦官の孫」と呼ぶ。宦官とは宮中近くに仕えるために去勢した男性のことを言い、子を成せるはずが無い者の孫という嫌味も加えて呼んでいた。後に宿敵となる袁紹が配下の者に書かせた曹操討伐の檄文にもこれらのことが書かれている。

治世の姦賊、乱世の英雄

曹操というと「治世の能臣、乱世の姦雄」といった言葉が良く使われる。これは人物鑑定の権威であった許子将の言葉だが、曹操の人となりをいち早く見抜いた人物は他にもいた(*1)

嫁入り前の娘を盗みに人様の家に入ったり(この時袁紹もついて来た(*2))、政府高官の家に侵入して悪さをしたり(よりによって張譲の家)、それを見かねて父に諫言した叔父を罠にかけたり(人を騙すことにかけては天下逸品)と、若い頃から不良少年として名を轟かせていた曹操であったが、人物鑑定人として名高い梁国の橋玄と南陽の何顒は世間と違って曹操を高く評価した。ある時橋玄は曹操に言った。

「今まさに天下は乱れようとしておる。相当の人物でなければこれを救うことはできまい。天下を安らげることができるのは、おぬしを置いて他におらぬぞ!」

今天下将乱、非命世之才不能済也。能安之者、其在君乎。

(後漢書橋玄伝)

あるいはこのようにも

「天下まさに乱れ群雄が相食む時代が来る。これを収めることができるのはおぬしだけじゃ。お主は治世なら大悪党じゃが乱世なら英雄になるぞ。わしはもう老いておるからおぬしの行く末を見れぬのが残念じゃが、きっとわしの子孫が見届けてくれるじゃろうて。」

天下方乱群雄虎争。撥而理之非君乎。然君実是乱世之英雄、治世之姦賊。恨吾老矣。不見君富貴。当以子孫相累。

(魏書武帝紀注)

これにより、曹操の名は大きく広まることとなる。

おまけ

古来より中国においては、日本とは違い能力さえあれば家柄にそれほどとらわれずに若手を抜擢するというようなことが慣習的に行われていました。その時の指針となるのはそれまでの業績と親族の能力と人物鑑定人の評価であったと言われています。従って名門である袁紹や孫堅のような後ろ盾が無い曹操が中央に出る(活躍する)にはどうしても鑑定人の太鼓判が必要であったと言えます。というのも当時の人物鑑定人、特に名の知れた鑑定人の下した「良」判定は往々にして当たるので、治世者もそれを目安に登用すれば失敗が無いということで大変に重要視されたのです。

その点、大尉の位に有り人物鑑定人として名を馳せた橋玄の絶賛とも言える人物評は曹操にとってこれ以上ない励みになったことでしょう。のち曹操は橋玄の墓に詣でた折に涙ながらに祭文を捧げたと言われています。そして曹操は橋玄の出してくれた評に恥ずかしくない業績をうち立てることに成功したのです。

参考書籍
*1 兄弟仲が悪かった許子将

余談ですが許子将の人物関定は個人的な「ひいき目」が大きく、公正・公平ではないという批判もあります。

*2 大脱走

この時首尾よくうら若き乙女二人を強奪した二人でしたが、最後の最後でドジを踏んだ袁紹が足をくじいてしまいます。「足が痛くて逃げ切れそうにない」と言う袁紹の泣き言を聞いた曹操は開口一声。「盗人がここにいるぞ!」驚いた袁紹は足の痛みを忘れて走り出し、二人は見事逃げおおせたそうです。

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