晋世家

最終更新
2005年11月27日

解題

史記の著者である司馬遷【しばせん】は、憎悪や怨恨といった人間が持つ深い情動を史書に書き記した異形の歴史家です。もともとは歴史家として生きていたわけではないのですが、歴史記録の編纂を夢見ていた父司馬談の遺志を継いだために、歴史編纂を人生の課題としてその一生を捧げました。

ワープロも無ければ紙すら存在しない時代ですから発行に手間取るのは当然ですが、司馬遷が残した史書は130編にもなる巨大な作品でした。当時の書は木彫りでしたので、実際に「史記」が天下にお目見えしたのは司馬遷の死後です。彼は本当に一生をかけて史記を作り上げたというわけです。

司馬遷自身の人生が並々ならぬものであったため、史記の作風は他の史書に比して風味が異なります。手短に言うと、司馬遷はある将軍の庇いだてをしたために冤罪を受け、宮刑に処せられたのです。宮刑とは中国独自の刑罰の一つで、男性器を切落とすことを言います。麻酔もかけずに鉤状の鉄棒で殺ぎ落とす恐ろしい刑罰です。

ここで出てくるのが李陵【りりょう】という将軍です。彼は30000を越す匈奴の精鋭相手に僅か5000の兵力で奮戦するものの、力尽きて敗北。宮中はこぞって李陵の非を鳴らしましたが、李陵の奮戦振りや常日頃の名声の高さから、司馬遷は李陵の弁護をしました。正しいことをした人間が悪い目を見るという現実が、始まります。

司馬遷の弁護を聞いた権力者武帝【ぶてい】はみるみる不機嫌になります。李陵を弁護するということは上級指揮官である李広利【りこうり】を責めるということであり、それはすなわち武帝の咎となります。「おのれ、下級文官風情が私に意見する気か。」憤懣やるかたない武帝は李陵に向けた怒りをそのまま司馬遷に向けます。司馬遷は投獄されてしまいました。

その後、匈奴に放った間者から報告を受けた武帝はほくそ笑みます。「それ見たことか、わしの思ったとおりだ」間者の報告は、李陵将軍が匈奴の駐屯地で兵士の教導に当たっているというものでした。「裏切り者を弁護するとは恥知らずよ」喜んだ武帝は司馬遷に死刑を言い渡します。

この時代、死刑を言い渡された人間は生命以外のものを差し出すことで刑を免れることができます。一番分かり易いのは莫大な金ですが、司馬遷にはそのようなものはありません。司馬遷自身「えぇいそれなら死んでやる」という気もあったでしょうが、父親から歴史書編纂の遺志を継いでいますから、それが終わるまでは死ねない状況でした。司馬遷は死刑と同じレベルの刑罰である宮刑を受けることで死刑を免れます。

なんとか一命を取り留めた司馬遷でしたが、実は李陵の裏切りは真実ではなく間者が将軍の名前を聞き間違えただけであったということが分かったのは刑が執行された後でした。結局司馬遷にも李陵にも非は無く、誤判だったということです。司馬遷の面目は保たれましたが、失ったものはもう戻りません。

史記の中の主人公達が超人的な絶対意思として「天」を見るのは、司馬遷自身のこうした経験や人生観がそうさせているのではないかと見れます。人の力ではどうにもならない、いわゆる運命のようなものがあらかじめ人生の途上にはあって、人はその中で試行錯誤して生きていくものだという考え方です。

この超人的な存在「天」は高みより人間達を睥睨し、少年が駒を触る無邪気さで人の一生をかき乱します。その意思は必ずしも善意に満ちたものではありません。司馬遷が描く史記の世界は、夢や希望よりも現実や絶望が描かれることが多いように思います。どんなに頑張っても越えられない壁がある。どんなに善行を積んでも変えられない運命がある。人は絶望の淵に立たされた時、人の手によってはどうにもならない天の意思に向かって怨嗟の声を上げます。おお、天よ我を見離したか!

項羽が死ぬ前に謳った歌の解説に、天が自分を見捨てたのであって自分が弱いからではない、全ては天の意思のせいだとする項羽の驕慢と対比されるように劉邦の控えめな歌がある。両者の内どちらが優れていたのかは自明だ、というものがあります。しかしわたしはこれは違うと思います。世の中には人の手ではどうにもならない絶望的なものがあって、司馬遷は垓下の項羽をしてそう叫ばせたのだと思います。あの四面楚歌の空のもとで天に向かって叫んだのは項羽でしたが、あるいは司馬遷本人だったのかもしれません。

私の力は山々を抜き、私の心は世を覆い尽くした。〔それなのに〕天はわたしに微笑まなかった。わたしの馬はもう進もうとしない。馬が進まないのをどうすれば良いというのだ。あぁ虞よ虞よ、お前をなんとすれば良いのか。

(史記)

逆らうことの出来ない天の意思に向かって上げた項羽の、絶望ともとれる歌です。その後項羽は決死隊を組織して脱出を試みますが、ギリギリになって思い直し追いすがる劉邦軍に転進して突撃。戦死(自刎)します。項羽は天の意思からは逃れられないことを悟り、死に花を咲かせたのです。

司馬遷は、このような人間が生きていく上で避けようが無い現実を、実に冷静なタッチで浮き彫りにしています。史記それ自体は歴史書ですが、ここには司馬遷の作為があちこちに込められており、史記それ自身がひとつの「作品」となっています。

史記の面白さは人間の負の面を浮き彫りにしただけではなく、聖人君子も所詮は人間であるという人としての可能性と限界を客観的に記した点です。ある人にとっては頼りになる臣下であっても、ある人から見れば功績を横取りするつまらない人間となります。重耳【ちょうじ】の側近の筆頭である狐偃【こえん】がよい例で、狐偃は重耳が晋に帰る直前に次のような発言をして重耳を驚かせます。

わたしは重耳様のお供として天下を回ってきました。〔その中で〕言うに憚るようなことも沢山してきました。私ですらそれを知っているのです。重耳様が知らないはずがないでしょう。私はここで去らせてください。

臣従君周旋天下。過亦多矣。臣猶知之。況於君乎。請従此去矣。

(史記)

これだけではなんのことか分からない謙遜の言葉のように思えますが、後の展開を見るとなるほどと分かります。

重耳は言った。「もし晋に帰って子犯(※狐偃を指す)と協力しないことがあれば、河の神よ、これを見よ」と持っていた宝玉を河の中に投げ入れた。〔そして河の神に誓って〕子犯と共に助け合うことを約束した。

重耳曰。若反國。所不興子犯共者。河伯視之。乃投璧河中。以興子犯盟。

(史記)

幼少の頃から付き従い、さらに晋に帰るまでの19年の放浪期間に付き従ってくれた狐偃に対して温情を忘れることは無いぞと誓いを立てた重耳の美談は、まったく違う視点から見るとこうなります。その直後の文章です。

この時、介子推は舟の中にい〔てこのやり取りを見〕た。〔彼は〕笑っていった。「天が公子(※重耳を指す)に道を開い〔て晋に導い〕たのだ。それなのに子犯は〔天ではなく〕自分の手柄のように言って重耳様に取引を持ちかけている。これほど恥ずかしいことがあるか。私はやつと同じ場所にいるのも嫌になったよ」と言って隠遁してしまった。

是時介子推従在船中。乃笑曰。天貫開公子。而子犯以為己功。而要市於君。固足羞也。吾不忍興同位。乃自隠。

(史記)

司馬遷の冷静な筆は、狐偃の独断専行をしっかりととらえています。重耳が成功したのは天に愛されたからであって、重耳が晋に戻ったのは天の功と言える。それを自らの功に置き換えて取引を持ちかけた狐偃を、司馬遷は冷ややかに見ていました。

その後の重耳は狐偃ら重鎮に対しては論功勲章が行き渡りましたが、身分の低い者たちへはきちんとした褒美が行き渡らないままに時が過ぎます。愛想をつかした介子推は本当に世を捨ててしまいました。後日間違いに気付いた重耳は慌てて介子推に褒美を与えようとしますが、介子推が再び世に現れることはありませんでした。

この他にも重耳や狐偃には、介子推をはじめとした身分卑しい者たちの意見を軽軽しく退けたり軽視したり侮蔑する場面が少なくありません。蒲の勃鞮【ぼってい】(※履鞮【りてい】とは同一人物)が焼き討ちの謀略を報せに言った時も、自分を殺そうとした履鞮を恨む重耳は聞く耳を持ちませんでした。ようやく履鞮の言を聞いたのは履鞮が全力で重耳を諌めたからです。

なんだ、諌めれば分かるんだから物分りの良い君主じゃないか、と思うのは早計です。介子推の場合は「臣下が主の非を責めるのはあってはならない」として重耳に訴え出ませんでした。それを不遇に思った介子推の使いが介子推を思いやって嘆いた歌で、初めて重耳は介子推の功績を思い出すのです。言われるまで分からない人。それが重耳です。

このように司馬遷は、君子と呼ばれる重耳の欠点を露にすることで「人間の限界」をまざまざと書き記しています。所詮重耳も人の子だ、ということです。史記がいまなお後世に読まれているのは、こういった司馬遷の人間学や人生論の奥深さが読者を魅了してやまないからでしょう。

2005年2月10日 SILVA

晋世家翻訳

唐叔虞

虞【ぐ】と呼ばれる人がいた。武王の三男であるとか、あるいは武王の弟であるとか言われる。叔という字が三男を示すので叔虞は三男となるが、武王の弟なのか成王の弟なのかはいまいちはっきりしない。史記では武王の子、すなわち成王の弟となっているが、別の説では武王の弟として武王を補佐していたとある。

中国においてやんごとなき人が生まれるときは神々が降臨する。案の定、虞が母親の胎内にいたときにも神が降臨した。「これから生まれる子供に虞と名づけなさい。わたしはその子に唐を与えるから。」生まれてきた子供の掌を見ると、確かに虞という字がかかれているように見えたので虞と名づけた。彼は後に唐の地を得ることになる。

ある日、成王【せいおう】が虞と遊んでいる時に桐の葉を与えて言った。「これで汝を諸侯に取り立てよう」と。これを見ていた史官は吉日を選んで虞を諸侯に取り立てるように進言する。驚いた成王は「わたしはあれとふざけていただけだ。本気ではない」と抗弁した。しかし史官に「天子に偽言無し(天上人は嘘偽りを言わない)」と諭された成王は思い直し、虞に邑【ゆう】(※土地のこと)を与えることにした。後、唐の地の主が不在となったので、成王は虞をもって当たらせた。

名と運命

唐が滅ぶと息子の燮【しょう】がたち、国名が晋となった。燮は五等爵(公侯伯子男)の第二位である侯になった。したがって燮は晋侯と呼ばれる。唐が滅んだという意味はよく分からないが、虞が死亡したので唐の国がなくなったという意味であろうか。ともあれ唐は晋としてあらたな一歩を踏み出す。

晋侯の息子である寧族【ねいぞく】は武侯【ぶこう】、武侯の息子である服人【ふくじん】は成侯【せいこう】、成侯の息子である福【ふく】は厲侯【れいこう】、厲侯の息子である宜臼【ぎきゅう】は靖侯【せいこう】である。この五人のことは良く分かっておらずまとめて考えるのが良いとする。司馬遷自身もこのあたりのことは良く分からないようである。

靖侯から三代過ぎて費王【ひおう】が穆侯【ぼくこう】となった。

穆侯4年、穆侯は斉の女性をめとって婦人にした。その三年後に息子が生まれたので仇【きゅう】と名づけた。さらに三年後に次男が生まれたので成師【せいし】と名づけた。仇も成師もいまの日本人的な感覚と変わらない文字である。仇は「かたき」とも「あだ」とも取れる報復の名前であり、成師は軍隊において成功するという晴れ晴れしい名前である。

当時の中国において名前は特別な意味を持つ。名前が優れていれば人間が優れており、逆に優れた人間は自然と優れた名前を貰うものだという考えだ。その最たるものが神仙思想で、優れた人間は優れた神々から優れた名前を与えられ、凡人とは異なる良い人生を送る。人は生まれながらに不平等であるというのが当然の考え方である。

ところで、穆侯の命名に疑問をもった人間がいた。師服【しふく】という。彼は誰とも無く言った。「仇という名前は復讐を意味する不吉な名前だ。ところが成師という名前は〔軍隊の統率・指揮において〕成功するという意味である。名前は必然的に付けられ、人間はその名前のとおりに人生を歩むものである。長男が仇で次男が成師ではまったく逆の命名ではないか。これでは国が乱れずに済むはずがない。」果たせるかな、成師は晋に反旗を翻すことになる。

穆侯の死後、穆侯の弟が勝手に即位した。太子である仇は国を追われたが、穆侯の弟を倒して即位した。文侯である。

文はもっとも優れた呼び名の一つ。仇は成師に対して度重なるパッシングをしたものの、周王室の権威を回復させることで晋の地位を高めるなど、君主としてはかなり有能であった。

文侯は弟の成師の日に日に名声が高くなっていくのを恐れた。先の師服の発言は広く晋国内に広まっており、「仇よりも成師」という見えない声があちこちにあったのである。文侯はそれでいて自負心が強かったのだろうか、弟を殺害するという暴挙には出なかった。しかし文侯は成師に権限を与えず飼い殺しにするつもりであった。成師は文侯によるこれらのいじめに辛抱強く耐えた。

文侯の35年。文侯が死去した。後を継いだ昭侯【しょうこう】:伯【はく】は成師の声望が高まるのを恐れたのか、成師を曲沃【きょくよく】に追いやった。ある人が言った。「晋が乱れる元は曲沃だろう。〔首都である翼の昭侯よりも〕曲沃〔の主である成師〕のほうが名声が高い。しかも〔成師は〕民心を掌握している。これでは〔曲沃から〕内乱が起きないほうがおかしい。」誰かが成師を担ぎ出すのではないかという意味である。

昭侯の7年。晋の大臣である潘父【はんぽ】が昭侯を殺害した。そして成師を引き入れるために曲沃に使者を派遣した。

文侯が即位してからすでに40年以上が経っている。待ちに待った桓叔【かんしゅく】(※成師のこと)は、晋の首都である翼へと向かった。ついに自分の時代が来た。名に恥じない輝かしい未来が自分を待っている。成師はそう思っていたかもしれない。しかし晋は軍勢を出して成師を攻撃。成師は念願の王座に座ることなく失意のまま帰国、その八年後に死亡した。

曲沃と翼の因縁の戦いの始まりである。曲沃と翼はさながら呉と越のような宿敵となった。

晋は昭侯の息子を新たに君主に立てた。孝侯【こうこう】である。

因縁

仇が成師を遠ざけたことから始まった曲沃と翼の戦いは後年さらに加熱した。成師の息子である荘伯【そうはく】:鱓【せん】は孝侯を殺害する。しかし晋が荘伯を攻撃したため、荘伯はやむを得ず曲沃に引き返した。晋は孝侯の息子をあらたに君主として擁立。鄂侯【がくこう】である。しかしこの鄂侯は在位わずか6年で世を去った。病没したのだろうか。

主を失って悲嘆に暮れる翼に、荘伯は攻撃を仕掛けた。おそらく鄂侯の喪があけていない早い時期での侵攻であろう。通常喪中の人間は攻撃しないのが正道であるから、荘伯のこの行いは邪道といえる。非道と言っても良い。この時代の戦闘はルールが厳しく、たとえば戦闘において奇襲が仕掛けられたことは無いというのであるから、荘伯の行いは許されるものではなかった。

荘伯のあまりのやり方に憤りを感じたのか、時の13代周王平王は虢【かく】に命じて曲沃を攻撃させた。当時虢の軍勢は中原最強と謳われており、圧倒的な兵力と多数の兵器を有する虢軍に曲沃軍は大敗する。晋は鄂侯の息子である光【こう】を擁立した。哀侯【あいこう】である。この一件を境に、曲沃にとっては虢も敵となった。

その翌年、荘伯が死去し、息子の称【しょう】が曲沃を継いだ。曲沃の武公【ぶこう】である。称は類い稀なる軍事センスをもって晋を攻撃、ついに哀侯をとらえた。称は荘伯の弟である韓万【かんまん】に哀侯を殺害させる。さらに称は哀侯の後を継いだ少子侯【しょうしこう】をおびきだして殺害した。称の徹底的な攻撃によりついに晋は滅んだ。かに見えた。

晋は周王室に泣きついた。時の周王:桓王【かんおう】は称の残虐な行いに憤りを感じたのかあるいは平王に倣ったのか、虢に命じて曲沃を攻撃させて曲沃軍を徹底的に追い詰めた。さらに哀侯の弟である緡侯【びんこう】を晋の君主として即位させてしまった。お家騒動にたびたび横槍を入れる周王室。むろん、称が黙っているはずがない。

称は緡を攻撃してこれを滅ぼした。称は緡を滅ぼして得た金銀財宝を西周王の釐王【きおう】に献上。釐王は称を認め、晋の主として諸侯の仲間入りをさせた。このあたりから称は知恵を使い出すようになる。力だけでは成らないと思ったのだろう。

称は曲沃の武公から晋の武公と名称を変更した。曲沃で即位してから37年が経過していた。どうもこの分家の親分は長い年月を経ないと成果が出ない血筋らしい。これは孫の重耳にも遺伝する。

この頃、斉の桓公【かんこう】が諸侯を集めて制覇【せいは】した。低迷を続ける周王朝に代わって軍事力によって諸侯を抑えて秩序を保つことを覇【は】と呼ぶが、実質斉の桓公は周王に並ぶほどの力を持つに至ったのである。無論これを潔しとしない諸侯がいれば戦争となるが、管仲【かんちゅう】が補佐する桓公は他の諸侯の中でも抜きん出た存在であり、現時点では並ぶものがいない。諸侯は従った。

この桓公という人物は多分に野心家であったようで、これより後に君主の儀式である「封禅の儀式」を行おうとして管仲に止められている。どうも桓公自身はあまり聖人君子の素質があったわけではないようである。だがそれだけに、人間的な名君としての模範例となるには相応しい君主であろう。

陰陽

称は成師以来の悲願を達成させた満足感の中で死去した。在位わずか2年。文字通り翼滅亡のために人生を捧げた称の息子詭諸【きしょ】は、晋の主となった。献公である。詭諸は称の妻を寝取るなど、君子としての資質に欠ける男であった。しかし称すら認める彼の天才的軍事センスは、晋をあらぬ方向へと誘う。

献公5年、詭諸は驪戎【りじゅう】を攻めて驪姫【りき】とその妹を得た。詭諸は二人を寵愛した。彼女らの詳細については史記に記載は無いが、おそらく若い美女(あるいは美少女か?)であったと思われる。

詭諸にはこの時点で幾人もの子がいたが、性癖が特殊な詭諸は若い娘を見ると子種を残さずにはいられなかったようである。のち、この驪姫(とその妹)から子供が生まれたのおかげで晋は大混乱に陥る。

献公8年。側近の士萲【しい】が献公に言った。「晋の本家の王子を殺さねばクーデターを起こされるかもしれません。〔いっそ彼らを殺してしまってはどうですか。〕」献公はそのとおりだと思い、晋の本家の王子らを殺害することに決めた。また、聚【しゅう】に城壁を築いて絳【こう】とし、ここを首都にした。

献公9年。献公の思惑を知った王子らは虢に亡命した。「またいつものことか」と思ったかどうかは知らないが、虢は本家の要請を受けて詭諸を攻撃する。しかし今回ばかりは様子が違った。なんと詭諸は虢を打ち破ってしまったのである。どうも彼は軍事にかけては類い稀なき才能の持ち主であったらしい。

献公10年。この際だから虢を潰してしまおうと考えた献公は虢討伐軍を組織しようと考える。しかし士萲は「内乱が起こるのを待とう」と言って詭諸をたしなめる。士萲がなぜここで詭諸を諌めたのかは分からないが、後に詭諸は虢を破ることになる。

献公12年。驪姫が奚斉【けいせい】を生んだ。

良くある話だが、晩年に寵姫を得た人間というものは、新しく生まれた子を後継ぎにしようと考える。詭諸もその例に漏れず、名声の高い申生【しんせい】・重耳【ちょうじ】・夷吾【いご】三兄弟を遠ざけて奚斉を近くに置いた。長男の申生は内外ともに声望高く、後継ぎとしては何も問題のない優秀な快男児であったため、この頃には太子と目されていた。

詭諸は誰とも無く、しかし周囲に聞こえるように言った。「曲沃は先祖代々守りつづけてきた大事な土地だ。蒲【ほ】は秦(※隣国であり大国)の国に近いし、屈【くつ】は翟(てき)に近い。わしの自慢の息子達にでも守らせておかんと心配でならんなぁ」 周囲の人間は敏感に反応した。詭諸は太子を廃立させたがっている!

案の定、詭諸は新たに生まれた奚斉を首都の絳において、三人の息子を遠方へと追いやった。詭諸には8人の息子がいたが、その中でも特に彼ら三人の名声は大きかったため奚斉のライバルとしたくなかったのであろう。しかも後継ぎを前線に送り込むことは通常考えにくい。詭諸が申生を廃して奚斉を後継ぎにしようと動き出したのは誰の目にも明らかだった。

献公16年。献公は大軍団を組織して霍【かく】と魏【ぎ】と耿【こう】を滅ぼした。詭諸は二軍を組織して各国を滅ぼしたが、この時の下軍の総大将が問題である。

当時の軍隊には非常に厳格な決まり事がある。特に人数に関するものが多く、周制度下では一軍の兵力は12500人となっている。三軍と言えば三倍の37500人だが、この兵力を所有できるのは周に認められた大国のみ。当然二軍であっても同じだが、献公は周王室の認可を待たずに独断で二軍を組織したらしい。上軍を自分で指揮し、馭者に趙夙【ちょうしゅく】、陪乗者に畢万【ひつまん】をつれた。そして下軍は太子である申生に指揮させた。下軍の指揮官というのが名誉ある職だと思うのは、この場合は半分間違いである。それについては後述する。

馭者とは戦車の移動を担当する専属ドライバーのようなもので、馭者の腕がよければその戦車は戦場を縦横無尽に駆け巡れることから、当時の戦闘においては非常に重要視されている。史書にも上軍指揮官・馭者・陪乗者・下軍指揮官と紹介が続いたが、指揮官の専属ドライバーである馭者と同乗者(主に敵の駆逐を担当する)陪乗者は軍隊の指揮官クラスの待遇を得ていた。趙夙はその道では天才的な馭者であった。

ところで畢万という人物についてだが、彼はもともと由緒在る家柄の子孫であった。しかしお家断絶の憂き目に遭い、流浪の末に曲沃に到達したという経緯がある。卜偃の占いによって詭諸に仕えると栄えるといわれたために詭諸に仕えた。後、畢万は魏の地を褒美として受けたが、卜偃はこれは吉兆と喜び、彼の子孫が栄えると断言した。その後、畢氏は魏姓にあらためる。子孫は魏の姓を得たことで繁栄し、後に一大勢力となるが、果たして卜偃の予言どおりであった。

輝かしい功績を立てて帰ってきた晋軍であったが、士萲は申生に忠告した。「今回の件でも分かるように、献公はあなたを太子として扱っていない。むしろ一人の配下として扱っている。従ってこれ以上の繁栄は望めないし、王位につくのはもってのほか。悪いことは言わない。国外にでも逃げなさい」申生はこれに従わなかった。

申生は出来た太子であった。出来すぎた太子でもあった。彼はたとえ自分が王位に就けずとも構わず、自分の父親が望むのであればすべてこなそうとした。まさに孝道極めりの模範例である。しかし天は申生を愛さなかった。正しい人間を破滅させる天の意思を、司馬遷は冷静に書き記す。

献公17年。献公は申生に異民族討伐を命じた。「まずい」と思った里克【りこく】が詭諸を諌めて言った。「太子というものは宗廟に祈りを捧げ、朝な夕なに君主(※詭諸を指す)の食事の用意をするものです。主君が外征するなら留守を守り、留守役が他にいるならお供をします。〜(中略)〜太子は軍隊を指揮するものではありません。もし太子が軍隊を指揮して失敗すれば、もう太子としての役目を果たすことも出来ないではありませんか

里克は忠臣であっただろうが、詭諸にとっては余計なことでもあった。太子が失敗すれば継承権を剥奪できる。それこそが詭諸の望んでいることであった。詭諸はうるさげに「わしには息子が沢山おる。太子は申生と決まったわけではない」と里克と跳ね除けた。言外に奚斉の即位を示している。ここにきて太子廃立の意思がまざまざと現れてきた。

申生は詭諸の指令を受けても怒らなかった。ただ寂しげに里克にいった、私は太子をやめさせられるのだな。里克は申生を励ました。「太子、励みなさい。軍功を立てるのです。怠慢を恐れなさい。孝道からはずれることを恐れなさい。あなたが廃立されるなんてことがあるものですか。人格を磨きなさい。そうすればきっと災厄からは逃れられますよ。」

申生は見事凱旋したものの、やはり災厄は免れなかった。奚斉の母驪姫は巧みに詭諸の心を操り、太子廃立の謀略を進める。

あるとき詭諸がそっと驪姫言った。「私は奚斉を後継ぎにするつもりだよ」と。しかし驪姫は喜ばなかった。むしろ彼女は泣きながら詭諸に言った。

「太子(申生)が後継ぎであることは皆が皆知ってます。しかもたびたび軍隊を指揮して実践的な経験も声望もあり、民百姓はこれになついています。どうして私の息子などが後継ぎになれますの。あなたが無理に奚斉を後継ぎにしようとするなら、私は命を絶ちます」(*1)

実は驪姫は表向きは太子を褒めちぎっており、当然伴侶である詭諸の前でもそれは崩さなかった。それゆえの飾りつけたような言葉である。詭諸は愛いやつだと思ったのか、ますます奚斉を後継ぎにしたいと考えるようになる。もともと頭の良いほうではない詭諸である。年老いた詭諸に驪姫の演義を見抜く力は無かった。

献公21年。驪姫は太子に言った。「夢の中で斉姜【せいきょう】さま(※申生の母親)に会いました。急ぎ曲沃で祭りをなさり、そのお供え物を殿さま(※詭諸のこと)に差し上げなさってはどうですか。」孝行心の強い申生は亡き母と父親のために祭りを行った。そしてお供えに使用した肉の一部を献公のもとに送り届けた。おそらく曲沃から絳に送ったのであろう。

この時献公は狩猟に出ており留守であった。

驪姫は肉に毒を混ぜた。

二日後、献公が狩猟から帰ってきた。献公は事の顛末を聞き、孝行心の厚い息子の話を聞いて喜んだ。そして献上された肉を食べようとした。料理係が肉を献公に差し出したが、すかさず驪姫が口を挟む。「その肉は遠方よりきたものです。まず毒味なさって」ためしに酒を庭にまいたところ地面がぐつぐつと煮え立った。肉を犬に与えると狂い死んだ。人に与えると、これも死んだ。

驪姫は泣きながら言った。「おお、太子はなんと恐ろしいお方でしょう。実の父親であるのに殺して自分が取って代わろうとするなんて。これでは赤の他人〔である私〕であればなおさら〔何の躊躇も無い〕でしょう。我が君はもう老いているのに、それを待てずに毒殺しようとするなんて!」

動揺が疑惑に変わる前に、驪姫は畳み掛けた。

「太子のなさりようは、私と奚斉のみが原因です。私は奚斉と共に他国に逃げたいと思います。それができないならいっそ自殺させてくださいまし。このまま〔私たちを〕太子に切り刻ませないでください。はじめ我が君は太子を廃しようと言いました。私は〔そのせいで太子の矛先が自分たちに向くであろうと思ったから、詭諸様の発言に対して〕恨んでいましたが、いまこうして〔太子のやりようを目の当たりにして、さすがに〕気が動転しています」

あくまで自分に非はないとする驪姫の巧みな誘導により、詭諸のなかで申生は悪と決まった。事の顛末を伝え聞いた申生は驚いて曲沃に逃げ帰った。申生が献公を毒殺するはずがないとは周囲の一致する意見であるから周囲のものが報せたのであろう。しかし献公は怒り、申生の守役であった杜原款【とげんかん】を殺した。

ある人が言った。「この毒薬を仕掛けたのは驪姫です。なぜ太子は弁解しないのです」申生は言った。「父上はもうお年を召されている。驪姫無しでは生活できないのだ。いまここに来て彼女の不正を知らせば、父上は驪姫に絶望する。それはまずい」ある人が言った。「〔それなら〕外国へお逃げなさい。」申生は言った。「〔真実ではないとはいえ〕父親殺しの汚名を被った私をかくまう国があるでしょうか。私に残された道は自ら命を断つことです」

申生は新城で自殺した。

女兵

権力者を間違った方向に歩ませるために送り込む女性のことを、中国では「女兵」と呼ぶ。驪姫は女兵さながら、詭諸を惑わした。驪姫の魔手は二人の公子に及ぶ。

太子申生の異母兄弟である重耳と夷吾が、絳に来た。特に呼ばれたからというわけではなく、単なる偶然であったようである。するとあるものが驪姫に告げ口した。驪姫が申生を殺したために重耳と夷吾はあなたと恨んでいますよ、と。驪姫は恐れて二人を除こうと考えた。

驪姫は献公に言った。「あの毒殺事件に関しては二公子も知っていたのです。」つまり重耳も夷吾も共犯者である、と。驚いた重耳と夷吾はそれぞれ自領の蒲と屈に逃げて防備を固めた。献公は、二人が揃って逃げ帰ったために驪姫の発言が正しいものと思い込んだ。自身の耄碌と頑迷が二公子をして去らしめたことには気付く由も無い。

献公22年。詭諸が蒲と屈に軍勢を向けそうな状況になったため、蒲の官僚である勃鞮【ぼってい】(※後に出てくる履鞮(りてい)と同一人物】は重耳に自殺するように迫った。しかし重耳は肯んじない。それならば私が手助けしますと勃鞮は重耳を殺そうとしたので、重耳は垣根を飛び越えて逃げ出した。重耳の裾が斬れた。重耳は翟に逃げ込んだ。

そこで献公はもう一人の公子:夷吾のいる屈を攻めたが、城壁が完成した屈はなかなか落ちない。やむを得ず献公は引き上げた。

二公子を国外に追いやったことで満足したのか、献公は虢への進撃を開始する。途中虞の国を通らなければならないので虞に馬を贈って通行許可を依頼したが、虞の重鎮は詭諸の危険性を指摘して主を諌める。しかし虞の君はそれを無視して通行を許可した。果たせるかな、虢を打ち破った献公は返す刀で虞も滅ぼした。先に贈った馬を取り返した献公は笑っていたという。

献公23年。勢いに乗った献公は屈を攻撃し、これを打ち破った。夷吾は翟に逃げようとするが、「二公子が一つところに集まれば献公が全精力を翟に勢力を差し向けるからまずい」と諭され、梁に出奔することにする。

献公25年。詭諸は翟に兵を向けた。重耳を倒すためである。しかし翟は重耳を本国入りさせれば晋が味方になるからと重耳を後押し。軍勢を繰り出して献公軍をなんとか撃退することに成功した。

驪姫〔の妹?〕が悼子【とうし】を生んだ。

献公26年。天下人を自称する桓公が諸侯を集めて会合した。桓公の自慢大会のようなものである。詭諸はたまたま風邪気味だったので出発が遅れたが、途中で知り合いに出会い、諭される。「あんなものは行く必要は無い。ただの桓公の自慢のネタになるだけだ。わざわざ行かなくても晋は平気だから、あなたは帰ったほうが良い。」献公は引き返した。

斉の桓公は自尊心が強い男であったようである。自ら天下人を自負する桓公の招集に従わなかった晋と斉の関係は微妙なものとなっていく。

献公は病気が悪化した。死の淵は近い。献公は側近の荀息【じゅんそく】を呼んで奚斉を頼むと、その年の秋に息を引き取った。

晋の重役である里克【りこく】と邳鄭【ひてい】は荀息に言った。「亡命王子の怒り〔と国内の世論〕は抑えようが無い。しかも秦が力を貸すと言っている。どうだ、〔奚斉を殺して〕公子を呼び戻さないか。」荀息は「献公の遺言に逆らうわけにはいかない」として断った。「それなら構わんさ、お前は誘わない。」里克らは奚斉を殺してしまった。

献公の遺志を守れなかった荀息は自殺を試みるが、ある人が荀息に言った。まだ悼子様(※奚斉の弟)がいるじゃないですか。そこで荀息は悼子を立てようとした。しかし悼子も殺されてしまう。荀息も命を落とした。ごたごたに巻き込まれたのか自殺したのかは分からないが、彼らが何らかの形で関与したものと思われる。

夷吾の帰国

クーデターを成功させた里克と邳鄭は二公子を呼び戻すために重耳・夷吾に遣いを出す。二人が最初に狙ったのは評判の良い重耳であった。

里克と邳鄭は翟に使者を出して重耳に帰国を促した。しかし重耳は断った。「わたしは父のいいつけに従わずに逃亡した身です。しかも父が亡くなったのに葬儀にも参加しておらず、人の子の礼である遺骸に付き従うことも出来ませんでした。そんな私が晋に戻ることは出来ません。だれぞ別の公子を立てて下さい」

遺骸に付き従うというのは奇妙な表現に思えるが、親の死に目に会えないうえに遺体をねんごろに葬る仕事(※これは本来子供がするべき仕事らしい)すらできなかった私がどうしておめおめ帰国できますか、というくらいの意味になるのであろう。

〔重耳に帰国の意思が無いと分かった〕里克は、夷吾を帰国させるために梁に使者を送った。夷吾は〔野心家であったのだろうか〕帰国する気になっていたが、側近の呂省【りょせい】と郤芮【げきぜい】は夷吾を諌めて言った。「晋にはまだ後継ぎの候補となる王子が沢山います。ここであなたを呼ぶのはおかしい。このまま帰国するのは危険ではないですか。秦の助力を得ましょう。」

夷吾は二人の献策に従った。

まず郤芮には十分な賄賂を持たせ邳鄭のもとに行かせた。「もし王位につくことができれば、汾陽の地の領主にして差し上げましょう」と。次に呂省には手紙を出させて秦の穆侯の助力を引き出そうとした。「もし本国入りが叶えば、晋の河西の地を秦に分割して差し出しましょう」と。秦の穆侯は愚鈍な君主ではなかったが、この誘いに乗った。邳鄭のほうは断る理由が無い。

穆侯は夷吾を守りながら晋に進んだ。すると、晋に動きがあると見た斉の桓公が〔呼ばれもしないのに〕諸侯を集めてぞろぞろと出てきた。斉は秦との会談のもと夷吾を晋に乗り込ませる。桓公はわざわざ晋の内部までついていき、夷吾の入国を見届けると引き返していった。どうも目立ちたかっただけらしい。このあたりが実に桓公らしい。

王者の資質

ついに夷吾は晋に戻ることができた。彼が最初に行ったのは入国のために助力を惜しまなかった秦へ使者を出すことであった。しかし使者の内容は秦の穆侯を唖然とさせるものであった。

恵公すなわち夷吾元年。恵公は邳鄭をして秦への詫びの使者に遣わした。「〔入国前にはあれこれと約束をしましたが〕大臣どもが言うには『それはあなたたちが国外にいたときに勝手に決めた話だろう。まだ王様でない時に取り決めた話など無効に決まっておる』と言って聞かないのです。いやはや申し訳ないことですが、あの話は無かったことに(*2)」

あるとき、時の東周王六代君主襄王は〔大国である〕斉と秦を集め、〔その前で〕晋の恵公に〔就任の?〕挨拶をさせた。おそらく入国の際の労をねぎらわせたのであろうか。礼とはお礼と訳すべきではなく、王位就任の祝い事を言わせたものと思われる。恵公は名実ともに晋の主になった。

さて無事王座についた夷吾であったが、彼はまだ〔自分よりも声望の高い兄の〕重耳が国外にいることに不安を感じていた。夷吾にとって里克はクーデターの代名詞であるから、里克が当初の意思を貫徹して重耳を招き入れはしないかと思っていた。夷吾は彼を前にしていった。

「里克殿(里克様?)がいなければ、私のようなものは王座につくことができなかったでしょうね。〔あなたにはとても感謝しております。しかしながら〕あなたは二人の君主(※おそらく奚斉と悼子を指す)と一人の大臣(※荀息のことであろうか)を殺しました。そのあなたの君主である私の立場は、なかなか難しいものと思いませんか?」

里克は夷吾の丁重な笑みの裏に隠された本性を見た。夷吾は里克を里子と表現している。この当時においては、男性に対する最高レベルの敬意を意味する尊称である。慇懃無礼、夷吾のどす黒さは計り知れない。里克は夷吾の問いかけに答えて言った。

「〔そもそもあなたが〕廃立されることが無ければ、あなたが大変な目に遭う必要もなかったのです。〔私の功績ではありませんよ、気になさらないで下さい。〕それに人を処刑するのに理由付けなどいくらでもできるではありませんか。いちいち私の咎(※奚斉らを殺害したことを指す)を責めなくても、あなたが死ねと言えば私は死にますよ。」

里克は自刎した。自刎とは剣を水平方向に首に当て、首をがくんと垂直に振り下ろしてその勢いで首を跳ね飛ばすというもっとも苛烈な自殺方法のひとつである。服毒自殺でも投身自殺でもなく自刎を選んだのは、彼なりのせめてもの抵抗だったのだろうか。

なお里克とともに夷吾の国内入りを手伝った人物である邳鄭は、先の件で秦に留まっていたので夷吾の魔手から逃れていた。

晋の君主(※夷吾)は恭太子申生を改葬した。秋、狐突が下国を訪れた折に申生に出会った。申生は〔狐突が乗っていた車に〕同乗して〔狐突に?〕告げた。申生は言う。「まったく夷吾はけしからんやつだ。私は天帝(※日本で言う閻魔様か)にお願いをすることができた。それによれば晋は秦のものとなり、その秦が私を祀ってくれることになったぞ。」

狐突は申生に答えて言った。「私が聞いた話では『神(※死んだ人、ここでは申生を指す)は血統の異なるものが出した物(※お供え物であろう)は食べない』ということです。秦は晋とは違うのですから、あなたを祀るという秦の行いは絶えてしまうのではないですか。もう一度よく考えてみてはどうでしょう。」

申生は「うむ、確かにそうだ。それなら私はもういちど天帝にお願いしてこよう。10日だ。新城(※申生が自殺した場所である)の西の外れに巫者がいる。彼(彼女?)をして、もういちどそなたの前に姿をあらわそう。」狐突は了解した。すると申生は消えてしまった。

それから10日。〔狐突が指定された場所に行くと〕申生がいた。申生は狐突に告げた。「天帝は罪在りしもの(※夷吾のことであろう)を罰すると仰せになられた。韓の地で、やつは敗れる」と。この事件の後、晋では次のようなわらべ歌が流行った。「恭太子様の葬式もう一度。あと14年もすれば。今の晋は駄目になる。次に栄えるのは兄様(※夷吾の兄:重耳)だ」

さて邳鄭であるが、里克が夷吾に殺されたことを秦国内で知った邳鄭は秦の繆侯に取引を持ちかける。「呂省【りょせい】と郤称【げきしょう】と冀芮【きぜい】は本当は従いたくて従っているわけではありません。もし大量の賄賂を持って彼らを口説いて重耳を入国させれば、ことは成就しますよ(*3)」。繆侯は乗った。

賄賂を受けた三人は喜ばなかった。三人は疑惑を強め、帰国した邳鄭と七與太夫を殺す。七與太夫はもと申生派の人間であり、夷吾をこころよく思っていなかった。殺された邳鄭の子である豹【ひょう】は秦に逃げ込み兵をあげるよう繆侯に泣き付いたが、リスクの大きい賭けはしない繆侯はこれを無視した。

汎舟の役

中国において天災は治世者の不徳から生まれる。恵公4年。夷吾の不徳を示すかのような大飢饉が、晋を襲った。晋は兵糧に欠乏し、隣国秦に援助を求めるが…。

夷吾は驕慢な君主である。彼は即位後ただちに功臣里克を廃し、秦との約束も裏切り、さらには七與太夫も(結果的には)誅殺したのであるから、民心が彼から離れていくのは当然であった。

恵公の2年。周王は晋に立ち寄って君臣の礼を取らせた。しかし恵公のもてなしは礼を失するようなものであった。周王はこれを不満に思った。

恵公の4年。晋を大飢饉が襲った。晋は糧秣の購入を秦に要請した。とはいえあの恵公である。繆侯は側近の百里奚【ひゃくりけい】に意見を求めてみた。繆侯自身にも迷いがあったのだろう。無理は無い。

百里奚は言う。「天災はというものは巡り巡って各国に訪れるものといいます。天災にあった人を助け、隣人に情けをかけるのは国家の正道と言えます。お助けになるのがよろしいかと。」百里奚は一時期奴隷に等しい待遇を受けていたが、彼の能力を惜しんだ繆侯が楚に金銭を差し出して買い戻したという経緯がある。

百里奚の正論を聞きながら、邳鄭の子である豹は言った。「晋を討ちましょう。」彼は邳鄭の乱の折に秦に亡命したが、常々晋に報復したいと考えていた。史書にはただ二言、伐之とある。この短い言葉に彼の熱い思いが込められているようだ。ただ、繆侯が彼の発言に重きをおいていたとは思えない。

二人の意見を聞いた繆侯は言った。「夷吾は実につまらん男だ。しかしその国民に何の罪があるのか。」繆侯は晋に糧秣を送った。その莫大な糧秣を載せた舟は秦と晋の首都をつなぐほどの長さになったと噂される。無論誇張だが、当時の人々も秦の真っ直ぐな行動を称えたに違いない。これは汎舟の役と呼ばれた。

翌年、今度は秦が飢饉に見舞われた。百里奚の言った通りである。秦は去年助けたよしみも会って晋に糧秣の購入を申し入れた。ところが、晋の君主はこれをなんとか利用できないだろうかと考えだした。

側近の慶鄭【けいてい】は言う。「秦のおかげであなたは王となれましたが、あなたはその時の約束をたがえました。それでも秦は、昨年の飢饉の折に糧秣を送ってくれたではないですか。今秦が糧秣を欲しいと言っています。与えて当然ではないですか。何を迷い、考える必要がありますか。〔糧秣を送りなさい。〕」

虢射【かくせき】は言う。「いや、これは天が与えた好機である。昨年秦は我々を滅ぼせる好機を天から与えられながらそれを受けなかったために今年のような目に遭った。天が与えるものは頂きなさい。我々はこの気に乗じて秦を攻めるべきです。それが天意ですよ。〔軍隊を送りなさい。〕(*4)」

恵公は秦に軍を向けた。

韓原の戦

飢饉で国力が減退しているはずの秦軍は良く戦った。秦は一時は窮地に追い込まれるものの、徐々に晋を追い詰める。

晋が軍を発した。ここに来てさすがの繆侯も頭にきた。思えば入国の際からあれやこれやと手助けをさせておきながら、その返礼も貰っていない。しかるに災厄につけこんで糧秣ではなく兵をよこすとは!

秦は出兵した。糧秣が無くて苦しいながらも、意気上がる秦軍は晋国深くに侵入した。

「秦軍が国内に入ってきておる。これはいったいどうしたことか」夷吾は慶鄭に尋ねた。慶鄭は〔呆れ顔で〕答えた。「秦はあなたを晋にいれてくれました。しかしあなたは約束の礼を果たしません。晋が飢饉の折には糧秣を送ってくれました。なのにあなたは秦が飢饉であることにつけこんで兵を出した。これでは深く入ってくるもの当然でしょうよ。」

晋は〔夷吾の車の〕馭者と陪乗者を誰にすればよいか占った。慶鄭が吉と出た。夷吾は先のやり取りを思い出した。真正面から自分を否定した慶鄭。思い出すだけでも腹が立つ。「慶鄭は偉そうなやつだ。だから駄目だ。」夷吾は歩陽【ほよう】を馭者に、家僕徒【かぼくと】を右【ゆう】(※陪乗者のこと。戦車の右側に乗るから右か?)にした。

九月。領軍は韓原の地で激突した。恵公の戦車はぬかるみにはまってしまって動くに動けない。慌てた夷吾は慶鄭を呼んで馭者に変えさせようとした。ここにきて占いに従えばよかったと後悔したらしい。しかし慶鄭は夷吾を助けなかった。夷吾は淩繇麋【りょうようび】(※淩繇麋はあるいは淩由麋とも)を馭者にして虢射を陪乗者にした。

ここに来て夷吾に運機が巡ってきた。腐っても曲沃の王。悪運の強さは詭諸譲りである。晋軍は局地的には秦を押しており、ついに秦の繆侯を追いつめた。晋の軍勢は繆侯を包囲し、じりじりと包囲網を狭めていく。繆侯さえつかまえれば晋の勝利は間違いない。

しかし天は繆侯に味方した。この戦いには以前繆侯が罪を許した無頼漢が参戦していたのだが、繆侯が危地にあると知った彼らは晋軍の包囲網に突撃したのである。晋軍は後一歩のところで繆侯を捕らえることろであったが、彼らの懸命な働きによって包囲網は崩れ、晋は繆侯を捕らえ損なった。

勢いに乗った秦軍は晋軍に逆襲。ついに晋の君主(夷吾)を捕らえる。晋は韓の地で敗れたのである。

夷吾の子は圉

秦はついに晋を破った。繆侯は、秦を連勝させてくれたのは天の意思であるとして天帝に捧げものをしようと考えた。要するに夷吾を殺してそれをお供え物にしようということである。俗に言う血祭りに他ならない。これを阻んだのが繆侯の妻、穆姫【ぼくき】である。穆姫は詭諸の娘で夷吾の姉でもあった。穆姫は哀訴した。弟を殺さないで欲しいと。

詭諸には何人もの息子がいたが、当然娘もいた。最初に生まれたのは女児である。斉姜(称の妻)と詭諸との間に生まれた。ようするに詭諸は自分の父親の妻を孕ませたわけであるが、申生もこの女から生まれている。そして先にあげた長女がすなわち伯姫【はくき】であり、彼女は秦に嫁いだので穆姫【ぼくき】と呼ばれる。

繆侯は言った。「晋侯を捕らえて今まさにこれを喜ぼうとした。しかし今こうしてお前に哀願されているのは辛い。それに私は以前聞いたことがある。箕子は唐叔虞が封ぜられるのを見て『〔この国は〕必ず大きくなるに違いない』と言ったそうだ。そんな晋を私が滅してよいものだろうか。」繆侯は夷吾を許し、殺さないことにした。

失意のままに帰国した夷吾は王座から降りることを宣言した。曰く「これでは社稷に合わせる顔が無い。吉日を選んで太子の圉【ぎょ】を即位させよ。〔私は引退する。〕」晋の大臣らは声を上げて泣いた。

夷吾は敗戦から学ぶことのできない男であった。帰国後に慶鄭に会った夷吾は、慶鄭に謝るどころか死を命じる。

11月。夷吾は晋に送られた。夷吾はまず韓原の戦いで自分を助けなかった慶鄭を殺し、自国の整備に励んだ。しかし先の敗戦で声望は軒並み重耳に傾いている。重耳を恐れた夷吾は狄に命じて重耳を殺害させようと望んだ。重耳は斉に行った。

恵公8年。夷吾は息子の圉を秦に人質として送った。この圉という男は夷吾が梁に逃げていた時に生まれたのだが、その時の占いに「人の下につく」という結果が出たので圉と名づけたのである。名は体をあらわすというが、それならば圉はつまらぬ人生を送ることになりそうである。

恵公10年。秦が梁を滅ぼした。

恵公13年。夷吾は病を患った。国内には後継ぎの候補が多い。太子圉は言う。「私の母家は梁にある。しかし秦がこの梁を滅ぼしてしまった。私は孤立無援だ。このまま父上が立ち上がらなければ、他の公子が後継ぎになるのだろう。」圉は妻と謀って晋へ逃げ帰ろうとするが、彼女は「行くならどうぞ」と秦に残ることを選択。圉は一人で脱出、晋に帰った。

恵公14年。夷吾は死んだ。太子の圉が晋の主となった。懐公である。

重耳の帰国

圉の逃亡は秦を怒らせた。秦は重耳を帰国させようとした。圉は重耳を恐れ、彼の側近たちを重耳から引き離そうと考えた。重耳とともに亡命している家族を出頭するように布令を出したのである。もし期限を過ぎれば、残された家族は全て殺すとも。

重耳勢力のNo2は狐偃である。懐公は狐偃と狐毛に出頭を命じたが、彼らはそれを拒否した。怒った懐公は二人の父親である狐突を牢獄に入れた。懐公は狐突に二人を呼び戻させる腹積もりだったらしい。しかし狐突は毅然として拒否した。怒った懐公は狐突を殺してしまう。

秦の繆侯は重耳を晋に送り込ませるために軍隊を繰り出した。ここで欒枝と郤穀の派閥のものに連絡して内応させ、懐公を殺して重耳を国内に入れた。これが世に有名な晋の文公である。重耳の19年に及ぶ放浪生活はここに終わりを告げた。

あとがき

晋世家の前半期のメインイベントである重耳の帰国でもって、晋世家はその流れを一旦止めます。史記にはその次に同じ晋世家として重耳の放浪の記録を残しているのですが、あまり長々と書くのもあれなのでここで一度晋世家翻訳の一つの区切りとしましょう。ここまで来るのに九ヶ月もかかってしまいました。

駆け足で見てきた晋世家ですが、その異様な空気に圧倒された人も多いかと思います。好いた惚れたという簡単な話ではなく、「嫁を奪われた」とか「妻が息子に寝取られた」といったドロドロとした人間関係が、史記においては容赦なく書き記されています。これは最初にご説明した通り、司馬遷の経験が普通とは違う点にも原因があるでしょう。

ところでその司馬遷という人物についてですが、彼は神童であった以外に特に子供時代の大きなエピソードは語られていません。実際に宮廷の史官になったのもかなりあとの話でして、それ以前に彼がどこで何をしていたのかはよく分からないのです。ただ、彼が何かの理由で中国全土の大旅行を敢行したという事実は残っているようです。中国のあちこちを渡って蓄えた知識・経験は、後の史記編纂に少なからず影響を与えたことでしょう。

時代を把握してもらうために司馬遷の同時代の人間を数名上げておくと、飛将軍李広【りこう】の孫である李陵将軍や武のカリスマ武帝【ぶてい】。その武帝の義弟の衛青【えいせい】あたりでしょうか。司馬遷が宮廷に仕えたくらいの時期は武帝による天下統一が成された後であり、武帝が盲目的に中国の外に対して侵略戦争を仕掛けて喜んでいた時代です。朝鮮半島が中国の支配下になったのもこの時代ですね。

武帝は自分の軍事的才能に関してとても自信を持っていますから、とにかく対外戦争を試みます。特に当時の中国は北の脅威である異民族に対して外交で対応していた時期ですから、武帝としては「そんな生意気な夷は俺がこらしめてやるわ」と意気盛んでした。とにかくプライドが高い、高すぎる人です。武帝は確かに英雄的な人ではありましたが、軍事以外の力について、私はそれほど高い評価を得られない人物だと思います。田中芳樹先生も著書の中で「黄河の氾濫を20年以上にわたって放置した」点は為政者としての能力にかけると指摘しています。

対する司馬遷の父である司馬談はすでに宮中で史官の位にありました。が、司馬遷が第二次中国大旅行を敢行中に武帝が封禅の儀式を行うという一大イベントが起きます。天下人のみに認められた儀式、その封禅の儀式に関して注意を加えた司馬談は、あろうことかそのイベントに招待されませんでした。武帝が意図的に呼ばなかったのでしょう。

歴史の一ページに残る一大行事に「お前は来るな」とされた。その怒りと悲しみは司馬談の心を焼き、彼はその炎によって憤死してしまいます。命の灯火がかき消されるほどの絶望と怒り。田中謙二先生にならって「怨恨」と呼びましょうか。史記の共通テーマである「怨恨」はこの瞬間から始まります。自分の命が消えかかっていることを知った司馬談は、ちょうど帰国したばかりの司馬遷に史書編纂の夢を託します。司馬遷は涙ながらに遺志を継ぎます。

そしてその司馬遷が超人的な天の試練を受けて宮刑を受けるのは最初にお話した通りです。司馬遷は宮刑を腐刑と呼びます。腐った人間、つまり人間以下。いえ家畜以下と言って良いでしょう。人としてこれ以上ない刑を受け入れた彼の心境はどれほどのものだったでしょう。

このあたりの司馬遷本人に関する考察は非常に難しくもあり、かつ楽しくもあります。

2005年11月27日 SILVA

参考書籍

巻末補足

*1 奥向きの話なのに

この文章を見て違和感に気付いたでしょうか。この時点における二人の会話は、簡単に言ってしまえばベッドの上の会話です。しかし司馬遷は、まるでこの二人の会話を実際に聞いてきたかのように詳しく書き記しています。これは通常ありえないことです。

司馬遷が自分で組み立てた紀伝体以外にも叙述形式はあります。これが物語体と呼ばれるもので、こと小説の舞台になりやすいのは史記の中でもこの物語体で書かれた部分であるとされます。誰も証人がいないはずの会話。それが現にこうして記されているとすれば、その情報の出所はいったいどこなのか。この辺りを上手く読み砕いていかないと史記の術中にはまります。あくまでこの時点では「こういった会話が成されたのであろう」ことを司馬遷が記したにすぎません。そのソースが単なる地域伝承なのかどうかはまったく不明です。史記が歴史書ではなく小説だと揶揄される部分でもあります。

*2 不遜な使者

「あの時はあの時ですから今は知りません。ごめんなさいね」という非礼極まりない内容の使者に邳鄭が選ばれたのは偶然では無い様に思います。ともすると、夷吾はそのまま邳鄭が(繆侯の怒りを買うことで)亡き者になれてば良いと思っていた節があります。もっとも繆侯は呆れはしたものの激昂することはありませんでした。繆侯も癖のある人ですから、ある程度予測していたのかもしれません。

*3 夷吾から重耳へ

邳鄭は「秦に対して返礼を済ませない悪質な外交手段はひとえに恵公こと夷吾一人のせいであり、重耳を入れてしまえば、秦に対してきちんとした対応を取れる」と言っています。重耳が約束を守る律儀な男だと評判だったのか夷吾がつまらない奴だと内外で有名だったのかは分からないものの、とりあえず邳鄭としては夷吾を捨てて重耳につくから協力して欲しいと持ちかけたということです。

*4 天の与えしもの

この時代においては何をするにも天が第一。天が許せば悪逆も許されます。それゆえ「困った人がいたら手を貸しなさい」と「困った人がいたら止めを刺しなさい」というのは単なる好悪によって是非を論ずることができません。逆の見方をしましょう。

宋襄の仁というものがあります。余計な情けをかけたために大敗したある人物の行為について揶揄する言葉で、そこからつまらないことに手をかけたためにかえって自分を苦しめる愚かな行為全般を宋襄の仁と否定的に使用します。この場合、史記の理論によれば、「天から与えられた絶好の機会を自分から逃したのだから勝てないのは当然だ」といわれてしまうわけです。

晋にとって秦は友好国ですが、夷吾にとって秦は征服の対象です。従って夷吾ブレインの虢射が「この際だから天災に乗じて秦に止めを刺してやれ」というのは理にかなっているのです。ただ絶対的に見るとこの行為はあまり正しいとは言えず、結局夷吾は秦に大敗します。

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