知輿之為取政之宝也

最終更新
2005年11月25日

はじめに

斉の桓公といえば春秋五覇の筆頭と呼ばれる英雄と知られています。かつては自分を射殺そうとした管仲を許して仕えさせ、彼の言を上手く用いて天下を掴んだ漢。当時、中国は形式上の支配者である周王室の権威が低下しており、各地で諸侯が勢力を伸ばしていました。桓公はその中でもいち早く勢力拡大に成功し、自分の力で諸侯を呼び寄せる「覇」を行えるほどの力を得ます。もちろん独力で成したわけではありません。それを実現させたのはまぎれもなく、管仲をはじめとした智者たちです。

周は殷周革命で有名な、あの周です。世界史を学んだ人は歌に乗せて覚えたのではないでしょうか。その周の武王は、周公旦と太公望という智の双璧とともに殷の紂王を討ちました。もともと紂王という人物も傑出した英雄中の英雄ではあったのですが、自分の持つ力のベクトルが、時代に上手くかみ合わなかった人でもあります。それと知った紂王は攻め寄せてきた武王に次代の権力者としての地位を譲ることを決めたのでしょう。自ら命を絶ちました。

その後、天下を取った周は周公旦によって支えられますが、もう一人の智者である太公望は遠く東の地に斉という地に封じられます。おそらく周公旦と進むべき道が異なると感じたためでしょう。「天下統一=殷打倒のためには力を貸しました。だからあとは私の好きなようにやらせてください」 汽車が目的地に着いたのだから、自分はもう降りても構わないだろう、と。そういうことですね。

そして時は経ち、周王室は衰えて斉をはじめとした諸侯は栄えます。結果論から見れば周公旦の求めたものが衰退し、それ以外が栄えてしまったわけです。このあたりの歴史上の事実は周公旦ファンにとっては痛いところでもあるようで、たとえば、かの有名な孔子様あたりには「絶対に許せない」ものだったようです。太公望を題材とした書物がある程度散逸しているのは孔子の熱狂的なアンチ活動があったからじゃないかと指摘する学者もいるくらいです。

国を正し、王を正して正常な道を歩ませる人物を軍師と呼びます。太公望は軍師と呼べる人物でした。そして今回登場する管仲と晏嬰も軍師と呼んでも良いくらいの人物です。ともに斉の宰相として辣腕を振るった名宰相で、司馬遷は一つの国にわりと短い期間で登場したこの二人の人物に注目し、同じ伝記の中に収めました。管晏列伝とは管仲と晏嬰の列伝ということです。この二人はとても対照的で、比較しながら読む楽しさもあります。この辺りの遊び心が司馬遷らしいといえば司馬遷らしいですが。

管晏列伝自体は非常にコンパクトに収められています。というのが国として大事な話は世家のほうに収録されていますので、ことさら個人の列伝にまで書き込む必要は無かったのでしょう。ただ管晏列伝の記述のみで話を進めてしまうと前後の話がちょっと良く分からない。ということで今回の管晏列伝翻訳では管晏列伝以外の記述も一気に挙げておきます。

管鮑友誼

管仲【かんちゅう】すなわち夷吾【いご】は、潁上【えいじょう】の人である。若い時はいつも鮑叔牙【ほうしゅくが】と行動をともにしていた。鮑叔牙は、管仲が才能のある人間であるということを良く分かっていた。しかし管仲は(家が貧乏だったのだろう)、貧困により常に鮑叔牙を騙していた。しかし鮑叔牙のほうは最後の最後まで管仲と良く接し、彼を悪く言うことは無かった。

やがて、鮑叔牙は斉の公子である小白【しょうはく】に仕えた。管仲は同じく斉の公子である糾【きゅう】に仕えた(*1)。

斉の国でいざこざがあり、王位継承権者がいなくなった。小白と糾の前に「先に国内に入れば国王」という夢のような話が舞い込んできたのである。両者は急いで国内入りの準備をすすめる一方、互いに競争者をあの手この手で邪魔しあった。管仲は小白を罠にはめて弓を持ち、小白を射た。矢は見事小白に命中して小白は倒れた。小白の葬儀が行われたのを見て安心した糾と管仲は小白勢力を無視し、悠々と準備を整えてから国内に入った。

すると斉にはすでに国王がいた。桓公【かんこう】すなわち小白である。小白は死んでいなかったのだ。

小白は糾よりも先に国内に入り込み、斉の桓公として即位し、何も知らずに入国してきた糾を待ち受けた。小白にまんまとはめれらた糾は殺され、召惚【しょうこつ】は殉死し、管仲は捕えられて牢獄にいれられた。

親友であった鮑叔牙は管仲を用いるように桓公に勧めた。桓公は管仲を用いるべきかどうか分からなかったので鮑叔牙に聞いたところ、小さな国の王には不要だが天下を取る国王になるには管仲なくしては不可能だと教えられる。天下人という大きな夢を掴むことができるかもしれない。桓公は自分を射た管仲を許し、側に置いた。

鮑叔牙は管仲の一つ下の位についた。管仲はめきめきと頭角をあらわして桓公を導き、「斉の桓公」は天下に覇するほどの力を得ることとなる。時に休戦の仲立ちをし、時に同盟関係を維持させるなど諸侯の関係を上手く調整して天下を動かした。武力を用いずに策謀でもってこのようなことを成し遂げたのは全て管仲の頭脳から出たことである。

管仲は桓公を良く補佐した。あるとき、桓公の見送りの時に間違えて斉の国内まで軍を引き入れてしまった隣国の王がいた。その王は感謝の気持ちで桓公の見送りをしたのだが、まったく気付かずに領内侵犯をしてしまったのである。国際問題に発展するほどの一大事に管仲は、今いる場所をあらたな国境とするように進言した。土地を与えることなってしまうが、見送りに来た王の面子は保たれる。桓公はその通り実行した。迂闊にも領内侵犯をしてしまった王は自分の失敗に気付いたが、本来なら責任を取らなければならないところを見逃してもらったばかりでなく、あらたに土地まで与えられたことに感動した。

桓公は駿馬であったが、管仲はまさしく天羽であった。このようにいち早く翼を得た桓公は、同時代の誰からも頭一つ抜き出た存在として広く名が知られるようになったが、それは取りも直さず管仲の力でもある。

管仲は次のように言った。「わたしはかつて貧乏であった時に鮑叔牙と一緒に商売をしたことがある。利益を分けるとき、私は自分の取り分を多くした。鮑叔牙はわたしを貪欲な男だとは言わなかった。わたしが貧しい暮らしをしていることを知っていたからである。わたしはかつて鮑叔牙のために便宜をはかってやってさらに彼を困らせてしまったことがある。鮑叔牙はわたしを愚か者だとは言わなかった。時勢に有利不利があることを知っていたからである。わたしはかつて三度主に仕え、三度追放されたことがある。鮑叔牙はわたしをつまらない男だとは言わなかった。わたしがチャンスに恵まれない男だと知っていたからである。わたしはかつて三度戦い、三度逃げ戻ったことがある。鮑叔牙はわたしを臆病者だとは言わなかった。わたしに年老いた母親がいることを知っていたからである。わたしはかつて公子糾が殺され、召惚が殉死したのに、自身は牢獄に入れられて生き長らえたことがあった。鮑叔牙はわたしを恥知らずだとは言わなかった。わたしが小さなことに囚われることを恥じず、天下に功名を成さずに死ぬことを恐れる男だと知っていたからである。我を生みし者は父母なれど、我を知るものは鮑叔牙である」

鮑叔牙は管仲を推薦すると、自分はつねに管仲の下についていた。その子孫は代々斉の禄を食み、邑を持つこと十を越え、常に名大夫であった。人々の多くは管仲の才能が優れていたことを褒めず、鮑叔牙の人を見る目の確かさを誉めた。

王佐の才

管仲は斉の宰相として政治を任せられると、海浜のちっぽけな国である斉でありながら、通貨を流通させ、経済を発展させ、国を富ませ、兵力を増強させた。さらに自身は庶民の暮らしに合わせ、庶民の目線に立った。それには彼の記した書物にはこう書いてある。

「人というものは蔵が物資に満ちてはじめて礼節を知る。生活が保障されてはじめて恥を知るのだ。為政者が真面目にしていれば民の結束も高い。政治の理念(*2)がきちんと張られていなければ、国は滅んでしまう。法令は水が流れるがごとく広まり、民心に沿うように下すべきである」。(順は向いている方向が同じということ。民の見ている方向と逆に政策を立てても無駄だと説いている。)

この理屈により、管仲は法令を分かり易く行いやすいものにした。民衆が欲するものは与えた。民衆が嫌がるものは取り除いた。その政治のありようを見てみると、災いを転じて福となし、失敗を転じて成功とし、〔人として十分な生活を送るために必要な〕蓄財を尊び、無駄な出費を慎ませた(*3)。

桓公は奥向きの件でいざこざがあった蔡の国を攻撃したが、管仲はこれ上手く使って楚を攻撃した。楚が周王室に貢ぐための道具を朝貢しなかった責任を追及するためである。もっともだからといって斉が楚に攻撃を仕掛けるのは筋違いも甚だしいが、楚はすっかりビビッてしまった。またあるとき桓公は山戎を成敗しに出かけたことがあったが、ちょうど山戎との戦いで困っていた燕に恩を着せようと燕の主の政権回復に手を貸した。燕はすっかり斉に感じ入ってしまい、天子に対する礼でもって桓公を見送った。また柯において斉と魯の不戦条約を結んだ時には桓公は約束を反故にしようと考えたが、管仲は約束を守らせた。

このようなことで、周囲の諸侯は斉に従った。管仲の記した書、すなわち管子に言う。与えるものを奪うことと同じだと知ることが政治の宝である

参考書籍
*1 公子とは

公子とは王位継承権をもたない王子のことを指す。逆に継承権を持つものは太子と記される。通常は国王の長男が後継者として扱われるので彼が太子となるが、公子は継承権を持たないその他の兄弟として扱われる。

*2 四維

原文は四維すなわち四本の綱。日本で言う大黒柱を綱で支えているようなイメージ。管仲は政治がきちんと機能するには、この四本の綱がピンと緩まずに張られなければならないとする。その四本の綱とは彼の著書によると、「礼・義・廉・恥」となる。恥は恥辱などのようなマイナスの概念ではなく天に恥じない真っ直ぐな状態のこと。日本においてはこの文言よりも「衣食足りて…」の部分が有名。

*3 軽重権衡

原文は軽重権衡。軽重は重さによるイメージから「バランス感覚」を、権衡は文字通り「物事を偏らせずに平衡感覚を確かにする」という解釈もある。リーガルマインドと言い換えてもいいが、もともと権衡とは天秤の意味であるから、私はそこから経済的な施策方針を説いているものだと考え上記のように解した。

もともと管仲は人は金と満足な生活が無ければダメだと言っており、そこから安定した経済を維持するのが為政者の本分だと考えていたと思われる。たとえば民が民らしい生活ができるように公共事業に力を入れるのはいいが、豪奢な建物を建てたり戦争をするのは国の政策としては良くないということだ。バランス感覚よりも単純に「秤=商売」と考え、経済の流通と促進を謳ったものと考えた方がしっくり来ると思われる。

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