呉の国夫たれ

最終更新
2004年12月16日

はじめに

魯粛と言うと周瑜や陸遜といった煌びやかな名軍師に挟まれた地味な参謀というイメージがついてくるかもしれません。孫陣営は周瑜に始まり、魯粛、呂蒙、陸遜と名軍師が次々とバトンタッチされて途切れなく続きましたが、絶世の美男と評判であった周瑜や社稷の臣として高い評価を受けている陸遜、あるいは関羽を見事討ち取った呂蒙に比べると、魯粛はいまいち頼りない人間のように見えるという人も多いでしょう。

しかしながら、魯粛が頼りないのは三国志演義の中だけの話です。正史における魯粛はむしろふてぶてしいくらい堂々としており、猛将関羽を舌戦の下に一蹴したり、孫策を失って不安な孫権に「だったら貴方が天下をお取りなさい」とけしかけるなど、なかなか良い味を出しています。魏で言うところの荀攸や程昱、蜀で言うところの法正や龐統あたりに近いのではないでしょうか。相方は諸葛瑾あたりでしょうね。

今日は、図らずも可哀相な引き立て役参謀として描かれることの多い魯粛の、史書に見られる真の姿を探っていきたいと思います。

恵まれた環境、恵まれた資質

魯粛。字を子敬。臨淮郡は東城県の生まれ。幼少の頃に父を失ったため、祖母と共に暮らしていた。魯家と言えばその地方では押しも押されぬ大富豪であるが、金持ちの息子として生まれた彼は実に気前の良い性格であった。体躯も良く、威風堂々でありながら貫禄もある。若い頃から考えることが壮大で、しばしば人の意表をつくことも多かったという。

まだ青年に過ぎなかったころ、彼は天下乱れりを予期して私兵を集め出した。惜しみなく金を使い、田畑すらも売りに出し、困窮した志士を養った。また近くの若者たちを集めては狩猟と称して軍事演習を行い、軍隊として育て上げた。それをはたから見ていた土地の長老達は「あぁ、遂に魯家から狂児が出たか」と嘆いた。まだ董卓が朝廷を牛耳っていない時分、漢の治世未だ衰えずと多くの人々が思っている最中のことである。阿呆者呼ばわりされるのも無理は無い。

いざ董卓現れりと中原が乱れるに及んで、天下は動乱の渦に巻き込まれた。かねてより私兵を育成していた魯粛は一族に向かって江東に移るべきと説く。曰く、この地方は既に無法地帯であって安住の土地ではない、民は富み、兵も強いと言われる江東の地へ移るべきであろう、と。一族の全員が「もっともである」と支持したので、魯粛は総勢300余名の男女を連れて長江を渡り、孫策のもとに身を寄せた。

この少し前、周瑜が居巣の知事として赴任することがあった。部下は数百を越える。案の定、道中食料に窮した周瑜は途中で魯家に寄り、糧秣の提供を求めた。

数百人分の食料である。しかも両者に面識は無い。見ず知らずの人間に大量の食料を要求されるわけだから、愉快でなかろうことは周瑜にも想像がつく。とはいえ食べるものが無くては部下の腹が満たせないのである。さてどう説いたものかと思案気な周瑜を前に魯粛は、何も言わずに二つある蔵のうち一つを指差した。―蔵ひとつ分丸々持っていけ― というのである。その量なんと3000石。

周瑜は喜んだ。一つには部下の腹を満たせるという点で、一つには魯粛という快男児に出会えたという点で。

魯粛という人物に惚れこんだ周瑜は以後彼と親交を結び、子産と季札さながらの仲となった。いわゆる縞紵である。周瑜死後孫陣営は魯粛によって支えられるが、魯粛という知己を得た周瑜の喜びは如何ばかりであったか。

参陣

江東に移り住んだあと、魯粛の祖母が亡くなった。生まれ故郷は東城であるから、魯粛は祖母の棺を持って東城に戻り、祖母の葬儀を済ませる。

折りしも東城滞在中の魯粛に親友である劉子揚から手紙が届いた。曰く「巣湖の地で鄭宝という人物が一大勢力を築いている。まだまだ人を欲している時であろうから、君もその能力をもて幕僚として加わり、見事男子としての本懐を遂げようではないか」。掻い摘んで言えば「俺は就職するからお前もどうだ」ということである。

もとより志は高い魯粛であるから、世に出ることに躊躇いは無かったのだろう。子揚の言葉に従って母親を迎えに曲阿に戻った。すると、母親はすでに周瑜と共に呉に移ってしまっていた。理由は分からない。そこで魯粛は呉に行って周瑜に会い、これこれこういう理由で巣湖に行くつもりだとつぶさに事情を話した。

なおこの時点で孫策は既に故人となっており、代わりに弟の孫権が呉に残っている。

周瑜は漢の英雄馬援の話を出して魯粛を説得した。君主が臣下を選ぶばかりが世の常ではない、臣下が君主を選ぶのもありだ。(君の親友のこともあるかもしれないが)英雄という点で見ても鄭宝など匹夫に過ぎないのだから、是非とも孫権の元へ来るべきだ、私と共に来てくれ。と強く薦めた。魯粛の人物を知る周瑜であるから、その説得には熱がこもっていたであろうことは想像に難くない。かくして魯粛は周瑜と共に呉に入る。

片鱗

魯粛を迎えた孫権はさっそく会見の席に彼を呼んだ。なかなかの人物と思った孫権は、賓客たちが退出したのを見て魯粛を一人残し、一対一で対話した。先に周瑜に「魯粛を用いるべし。逃すべからず」と言われていたこともあるが、純粋に魯粛の人となりが知りたくなったのであろう。席を挟んで二人きりになると、孫権は胸中包み隠さず話すことにした。漢室の行方、孫家の後継者としての重責、自分が求める理想、夢、あるいは野望など。

ここで魯粛は漢の始祖である劉邦が項羽の妨害のために楚の懐王を守りきれなかった事例を挙げ、懐王を献帝、項羽を曹操、劉邦を孫権と当てはめて説いた。それには、いかに孫権が雄大な志を持っていたとしても、曹操ある限り漢室を助けることは難しい。ここは無理に出ず地を固めて機を待ち、黄祖を討ち、劉表を討伐して長江全域を支配し、その上で帝位について天下に号令すれば高祖劉邦に匹敵することができるであろうと。つまり魯粛は「風前の灯の漢室などは放っておいて自勢力の拡大につとめ、あなたが直接皇帝になれば良い」と説いたのである。張昭あたりが聞いたら卒倒したかもしれない。

無論、これは大逆の罪と言っても良い。場所が場所であれば首が飛んでもおかしくない不敬だが、孫権は「いや、私は漢室を助けるために戦っているのだ。さすがにそこまではできぬよ」と笑ってみせた。もっとも彼が本心からそう言ったのかは分からない。あるいは孫権の腹の内も既にそうと決まったが、本音は互いに心中で通わすのみで、建前のみを形式上残しただけかもしれない。少なくとも、若い孫権の心の内に大きな火が灯ったのは想像に難くない。

天下三分の計

中国において「三」という数字は「安定」を意味するものと思われる。中国の椅子は西欧のそれと決定的に異なる点がある。足が三本なのである。通常我らが想起する椅子といえば四本足と相場が決まっている。二足で歩行する人間も伏せば四足になるし、犬馬も四肢で身を安定させる。三輪車よりも四輪車の方が安定するため、現代で「自動車」といえば四輪車を指すだろう。

しかるに中国においては、物事を安定させるのは3であるとする。1は立たず、2は競う。3になって初めてバランスが取れるということで、3の数字は中国では非常に親しまれている。中国文化の影響を大きく受けている日本においても3の数字が喜ばれるのはそのためである。

たとえば先に登場した董卓の、腹に刺した蝋燭の炎が「三日三晩燃え続けた」というのは、実際に72時間火が燃えていたことを意味するのではない。董卓の死によって世が少しはましになった、安定の方向に向かった、ということを意味している。3は「安定」の象徴なのである。

今、北に魏ありとある。南に呉ありと見る。すると、魏呉の関係は数字の上では2となる。これでは安定しない。当然中国人としては3つめの何かを得たいと思うだろう。第三勢力の出現。すなわち天下三分である。

和睦か、交戦か

袁紹の下を離れた劉備を猛追していた曹操が、遂に荊州を奪ったという話が入った。かねてより荊州は我が物にと思っていた孫陣営にとって、ことは急な事態となった。相手は100万と号する(*1)屈強の精鋭と言う話である。対する孫陣営はどうかき集めても1割程度しか用意できそうにない。

袁紹、袁術、呂布など並み居る強豪を次々と蹴散らし中原の覇者となった曹操の実力は江東にも知れている。孫陣営は南下を続ける曹操と敵対するか、手を結ぶか、つまり降伏するかの選択に迫られた。

もとより孫権は戦に長じていない。父孫堅や兄孫策が戦争の申し子であったのにくらべ、孫権は戦での失敗談が多い。異民族との戦いでは、孫策の再三の注意にも関わらず戦準備をおこたったために突撃を許してしまい壊走する。周泰の懸命の働きがあったために命は助かったが、おかげで周泰は死の淵を彷徨い、神医華陀に救われるまでは意識が戻らなかったという。

孫権陣営では主戦派と降伏派で真っ向から意見が分かれた。

主の目の前で降伏を論ずるのだからこれほど失礼な話はない。とはいえ孫権が戦争に疎いのは、誰あろう彼本人が一番良く知っている。とはいえ彼とて26歳という若さであるから英気もある。覇気もある。相手が強いと分かっているからといって軽軽しく膝を折りたくないという思いもあった。しかし、自信は無い。

「少し休もう」

喧喧囂囂の議論の場に疲れたのか、孫権は一次休憩を取り、部屋を出た。それを見ていた魯粛はすかさず孫権の後についていき、軒下で彼を待った。孫権はかねてより魯粛を信頼していたので彼の手を取って尋ねた。私はどうすればよいのだろう。何か良い考えは無いだろうか、と。

魯粛は言う。自分たちのような一役人なら、たとえ曹操に降伏したとして失うもの寡である。名声も無いわけで無いから牛車の一つにでも乗れる身分(*2)は維持できるし、功を重ねれば出世もできるだろう。だから彼らは(降伏しても痛くないので)降伏論を展開しているのだ。しかしあなたは違う。あなたが降伏したとして、新たな主の下、行き場などどこにも無い。間違えてはいけない。すぐに決断すべきである。

それこそ孫権が求めている言葉であった。孫権は魯粛の言葉に奮起し、会場に戻るや曹操と開戦する旨、周囲に告げた。

国夫の礼

魯粛は周瑜を呼び寄せるように進言した。孫権はすぐに周瑜を呼び寄せ、魯粛を部隊司令官に任命して周瑜とともに曹操に当たらせた。曹操軍は気候の違いなどから来る風土病にも悩まされていた折、周瑜と黄蓋の計略で水軍が大敗したことで士気が一気に落ち込んだので本国に引き上げた。

孫軍は勝利した。一撃の下に撃退したというわけではないものの、外部から見れば孫軍の勝利である。曹軍が押し寄せ、孫軍が防ぎ、曹軍が撤退した。曹操軍が許都危機の知らせを受けたかどうかは関係なく、対外的に孫軍は「勝利」したのである。

いち早く凱旋の途についたのは魯粛だった。孫権はわざわざ立ち上がって彼を向かえ、賢人を招くような礼をもって魯粛を迎えた。

珍しいこともあるものだと周囲は思っただろう。しかし「戦いなさい」と言ったのは魯粛である。勝利したのは魯粛のおかげだという気持ちもあってか、君主であるにも関わらずおおいに礼をとって彼を迎えた孫権は魯粛に言った。わたしは今こうして礼を尽くして君を迎えたが、さて君は不満かねと。魯粛は孫権の元に進み出て言った。えぇ、不満ですと。

周囲がぎょっと驚く中で魯粛はさらに言った。「我が君にはその徳を天下あまねくに発せられ、四海の隅々中国全土を統一した上で帝位に就き、その上で座りの良い車で国夫の礼を尽くすように私を迎えて下さい。そうすることで初めて、わたしをたたえたことになります」孫権は大いに頷き、互いに笑いあった。

結びに

史書に見られる魯粛像、如何でしたか?魯粛といえば諸葛亮と周瑜の間に挟まれて損な役回りばかりする可哀相軍師の代表例だと思っている演義読者も多いでしょうが、正史にある魯粛は諸葛亮や龐統すら上回るほどの軍師振りを見せ付けてくれます。演義では赤壁に当たって孫権に開戦を決意させたのは諸葛亮と周瑜になっていますが、正史において孫権を説得したのは、誰あろう魯粛本人です。

さて、見事曹操を退けた孫権陣営は次なる目標として荊州を狙います。実際には荊州を通過することで蜀の地を奪い、天下二分の計を実行しようとしたわけですが(ちなみにこれを提案したのは周瑜と甘寧です)、それに先立って赤壁で第三勢力として同盟を結んだ劉備が邪魔になりました。劉備はもともと自分で荊州と益州を欲しいと願っていたので孫軍が通過するのを拒み、関羽を境界に当たらせて呉に睨みをきかせます。関羽対魯粛の図です。関羽はたびたび呉に噛み付こうとしますが、魯粛はあくまで友好的な態度で関羽をなだめます。

その後劉備は益州を得るに及びますが、相変わらず関羽は荊州から動きません。三国志演義では、それみたことか、だから劉備などは殺しておけばよかったのだ。君が行ってなんとかしてこい、と周瑜に叱られた魯粛が関羽の元に参るものの、散々暴言を浴びせられた挙げ句広場で引きずりまわされ、衣服はズタズタ心身ともにぼろぼろになって追い返されてしまいます。しかし史書では少し様子が違います。

魯粛は関羽のいる地に乗り込み、会談を求めます。関羽はあらかじめ荊州を返さないように論陣を張ることを命じられていましたが、魯粛は劉備が落ち延びてきた折にわざわざ好意で貸し与えた土地を(益州という地を得たにもかかわらず)返さないのは道理に反すること、それならばと三郡のみで手を打とうとしているのそれすら拒む不義を指摘して責め立て、関羽を追い詰めます。

関羽は、いや、そんなことはない。土地は人になつくものであって最初から誰某のものと決まっているわけじゃないんだから我らが治めておいてもいいだろう、と言い返します。苦し紛れの反論に魯粛は大喝し「黙れ!おぬしのような者に国家の大事が分かるものか!」と叱り飛ばします。関羽とて春秋を手放さないくらいの学問好きでありますから道理については知っていますし、先の正論。加えて魯粛の堂々たる態度も重なって、それ以上何も言い返すことが出来ずに下がってしまいます。演義からは想像もつかない姿です。

それから数年。建安22年(西暦217年)、魯粛が没します。享年46歳。魯粛の才を愛していた孫権は大いに悲しみ、葬儀を行い、自ら弔問に訪れました。

それから後、呉の近辺で鳳凰が出たということで孫権が帝位につきます。孫権は祭壇の前で振り返り、大臣に向かって言いました。「いつか魯子敬がわたしに帝位をすすめたことがあったが、今思えば、まこと先見の明があったと言える」

時に黄龍元年。孫権48歳の時です。魯粛が世を去ってから12年も経っていました。

参考書籍
*1 100万と号する

号するとは称すると読み替えても差し支えありません。実際に曹操が100万の軍隊を用意したわけではなくて100万だと言い張っているという意味です。実際には20万もいれば良いほうだったのではないでしょうか。あるいは本当に100万の軍団だったとしてもその大半は医療部隊や工作隊ですから、戦闘要員もせいぜい3割程度だと思います。

なお当時の中国においては数字は重要な意味を持ちません。戦闘での捕虜の数や殺した兵士の数は0をひとつ余分につけて謳うように数字を誇張して上奏するのが慣習的でしたから、100万というキリの良い数字を出して味方を鼓舞する狙いがあったのだと思います。本当に100万の大軍を用意するのは難しいでしょうし。

*2 車に乗れる身分

牛車は移動に使うものですが、普通の身分の人間がこんな贅沢なものを使えるわけはありません。ある程度の財力のある、言ってみれば「お屋敷住まいの身分」という意味でしょう。また牛車という言葉は戦勝後の魯粛の言にある「座りの良い車」とあいまって微妙な趣をかもし出しています。

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