地縁共同体『里』

最終更新
2005年01月26日

地脈と血脈

古来より、中国においては人と人の「繋がり」を大変重視する傾向がありました。「誰と誰が親子である」とか「私の先祖は誰である」とか「自分はどこそこの生まれである」などなど……。そういった場合に、三国志演義にしてもなんにしても登場人物が名乗り挙げる時のきめ台詞が思い浮かぶでしょうか。

東菜郡の〜と言えば太史慈(子義)ですし常山の〜と言えば趙雲(子竜)、燕人(えんひと)〜と言えば張飛(翼徳/益徳)と相場が決まっています。もっとも東菜郡には太史慈以外にも沢山人がいましたし、燕人であるから張飛だ、というわけではありませんが、「自分が誰であるか?」を示すものとして地名を掲げる人は非常に多いです。もっとも逆に血縁を重視している人もいます。中山靖王劉勝の末裔……御存知、劉備(玄徳)さんですね。ですがこういうのは稀です。

日本、たとえば戦国時代においてもっとも重視されていたのは「家」でしょう。日本の伝統的な支配概念としては「家」というものが非常に大きなウェイトをしめていたと思います。織田家、浅井家、朝倉家…。この場合、「どこで生まれた」といったことはあまり大きな意味を持ちません。日本が狭いからといってしまえばそれまでですが、日本は島国なので生まれた場所が違っても「所詮は日本人」という考えがありますから、やはり「○○家の長男」といったように「家系」が重要な意味を持ってくるのです。

中国においてはこの「家」の概念が変わります。

ひとくちに中国人といっても、正確な?意味での中国の人とは黄帝を始祖とする漢民族であるという考えがあり、それは中心にいる人間であり、だからこそ中国は天下の中心であるという考えがあります(中華思想)。この場合、私たちが感覚的に考える「中国」内に暮らしていても、「非漢民族」は、家畜同然とは言いませんが蔑まれていたことは事実です。つまり純然たる「住み分け」が、古来より繰り返し行われていたのです。

――同じか ――そうでないか

こういった「同じ者を集め、違う者を排除する」システムの一つに地縁があります。

三国時代における地縁

三国志を眺めていると誰と誰が「同郷であった」とか誰と誰が「同郷であったために意気投合した」とか、あるいは「同郷であったために斬ることができない」「弱みになる」といった記述がいくつか見つかります。また地方の有力者や統治者も徒党を組む傾向が強く、「他を廃し類を頼む」のはこと政策レベルまで介入しています。

荊州勢の協力を得たことで皇帝にまでなった劉備。徐州勢の協力を得ることで基盤を固めた孫権。豫州勢の奪い合いに勝利して袁紹を破った曹操。派閥とは言わないにせよ、ある特定の地方の人間の結びつきを上手く利用できた人間は、そのほとんどが成功しています。

同じ出身地どうしの結束。しかしこれは「同じ出身地だから協力する」という単純なものではありません。

古来より中国においては富の集中と恣意的な分配が当たり前に行われていました。中央で「出世」した人間、言い換えれば権力を握った人間は、こと自分の生まれ故郷が有利になるように政策を展開。「単に稼いで帰ってくる」わけではなく「地方に金が落ちる」ような政策を行うことが往々にしてあり、統治者もそれを役得とか政治家のモラル(士気)向上のために容認します。誰しも自分のためになるのなら真剣に政治に取り組むであろう、ひいては繁栄に繋がるであろうということです。

これは逆の見方をすれば、一人でも政治の中枢に息のかかったものを送り込むことに成功すれば一族の安泰が約束されているということです。

地方は結束します。

地方の有力者:長老は、それこそ一族総出で若者を教育し、中央に送りつけます。若者はその地方にとっては重要な資源であり商品でもあったので、「働かなくても勉強だけしていればよい環境」をつくるために後押しします。つまりパトロンになるということです。貧乏なはずの劉備が公孫攅とともに盧植のもとへ通えたのも、親戚の後押しがあったからだと言われています。そしてこの、長を中心とした地域の強固な集合体のことを『里(り)』と呼びます(*1)。

呂布の孤独

「呂布がいじめられる」こう書くと演義読者は思わず笑ってしまうかもしれません。鬼神のごとき戦闘力と抜群の騎兵指揮能力で「人中の呂布」、あるいは「飛将軍」とまで称された軍神の申し子呂布(奉先)。彼が董卓陣営においていじめられていたという話をすると、多くの人は驚いた顔をします。

汜水関の戦い。猛将孫堅(文台)が、意気上がる董卓軍の精鋭を相手に熾烈な戦いを繰り広げた戦いです。四天王の祖茂を失うという痛手を被りながらも孫堅は、連合軍の将を次々と切り捨てていった董卓軍きっての驍将華雄を討ち取ることに成功します。これにより連合軍は勢いづいて遂に董卓をギリギリまで追い詰めることに成功しました。

孫堅の勇将ぶりが輝く戦いですが、ここでひとつ疑問があがります。この重要な戦いで、あの呂布はいったいどこにいたのか?と。実は呂布はこの当時上司であった、華雄部下の胡軫からいじめられて嫌になり、仕事をさぼってしまったのです。

呂布の戦闘力や演義での派手さ加減、また董卓が呂布を引き抜いたときのエピソードから「この時点で呂布は既に董卓の側近であった」とか「騎兵隊の統帥として全軍を任されていた」などと誤解する人が稀にいます。テレビゲーム「三国志」あるいは「三国無双」などでもそうですが、まず董卓がいて呂布がいて、その下に華雄や張遼らがいて...という構図になっています。しかし現実は違います。

董卓は涼州の出身です。兵も涼州の出でしょう。その配下、特に「軍隊」という枠組みの中ではほとんどが涼州色にそまっていたと思います。

これに対し呂布は并州の人間です。他にも張遼や王允などがいますが、李傕にせよ郭汜にせよ、およそ「董卓」軍の中枢を担っているのは涼州ネットワークです。その中で、ただ護身のためだけに呼ばれた呂布は、董卓軍において重宝されているというよりはむしろ飼い殺しされている状態であったと思えます。強固な結びつきを持った地縁共同体里は、同時に他の出身地の者を寄せ付けない、強烈な排他性を持っているのです。

後に呂布が「同郷の」王允の誘いに乗って反旗を翻したのも、涼州出身者ばかりで固められた董卓軍で息苦しさを覚え、追い詰められていたための暴挙ということも考えられます。しかもよりによって董卓は洛陽を捨てて長安に遷都して身の安泰を図っていました。ますます涼州人に有利な、そして并州人には辛い職場だったことでしょう。呂布が王允の誘いに乗って自ら董卓を斬ったことも、その後「この際だから涼州の人間は皆殺しにしよう」と提案して王允にたしなめられたところからも、呂布が董卓陣営において決して悠々と暮らしていたわけではなく、むしろ悶々とした日々を送っていたのでは無いかと思えます。呂布だから特別、というわけにはいかないのです。

姜維の孤独

呂布が感じた孤独と同じようなものを感じていたであろう人物が他にもいます。蜀漢の丞相であり、人物鑑定人として名高い司馬徽(徳操)から臥龍とまで賞された男(*2)諸葛孔明に招かれた涼州の人、姜維(伯約)。一国の丞相に「君こそが涼州最高の人間だ」と絶賛されたために後の人生を捧げた忠義の将。演義では「亡き丞相閣下への恩義」のために身を粉にした義将として描かれ、シニカルな読者には「無理な北伐を繰り返して蜀漢を疲弊させた元凶」と冷ややかに見られています。しかし、そもそも姜維にはそこまで意固地になる必要があったのでしょうか。

ご承知のとおり、蜀漢を作ったのは幽州出身の劉備(玄徳)です。そしてその周囲を固めたのは全国各地の勇将。何かのお祭りかと思われるくらいの多種多様な人間が、この流浪の男についてきました。

ところで文官勢を見てみると、そのほとんどが荊州の人間です。一応益州の人間もいますが、メインは荊州から流れてきた人間が多く、当然ですが涼州の人物も少数です。姜維が入る前に馬超と言う西涼の武者が武官として参陣していますが、劉備陣営に入ってからはそれまでの輝きからは想像もできないくらい目立った活躍も無くその生涯を終えています。

諸葛亮亡き後、蜀漢の大将軍は四相の一人である蔣琬が勤めます。四相とは諸葛亮(孔明)と蔣琬(公エン)と費禕(文偉)と董允(休昭)のことを言います。

この中で孔明の実質的な後継者であろう蔣琬は、やはりというべきか荊州の出身です。では費禕と董允はどうか?やはりこれも荊州出身です。劉備は自身が幽州の人間であったこともあってか特にだれかれ構わず重用していましたが、後を受けた諸葛亮は露骨に荊州勢を重用していたようです。魏延が例外なのが気になりますが、おそらく彼がインテリでないため、個人的に気に入らなかったのでしょう。孔明は自分と似た「教養のある人間」は愛しますが、張飛や関羽と言った力自慢の人間をバカにしていたふしがあり、交流もほとんどありません。趙雲と交流があったのは彼がややインテリに近い側面を持っていたためと思われます。

またいわゆる北伐においても、斬新な戦術を披露した魏延を無視し、ここでも経験の無い「荊州出身の」馬謖を起用しています。その後の負けっぷりは孔明の人選ミスというべきか相手が運悪く張郃であったためなのか判断がつきにくいですが、「蜀漢のブレイン=荊州人」という図式は孔明によって作られていました。

西暦235年。孔明が世を去ります。

後を継いだ四相(もう三相ですが)は「もうこれ以上の北伐は無理」と徹底防戦と内政充実を基本路線に切り替えます(*3)。そして打倒魏、漢王朝復興の意思を継ごうと北伐を繰り返す姜維をたしなめます。もっとも蔣琬らが姜維を諫言するとか協力を拒否した、とは言いませんが積極的に協力したとも思えません。ともすると独走しがちな姜維と、北伐に否定的な意見を述べる四相。涼州出身の姜維は、諸葛亮不在の蜀漢の中で孤立気味であったと考えられます。

また益州から涼州までは目と鼻の先。姜維の出身地である漢陽郡は涼州最南端の武都郡のすぐ北にあります。地理的に見ても「あとすこしで手が届く」位置にありますから、「この北伐が成功すれば故郷へ参ることもできる」となれば力を入れたいというのが人情でしょう。こと家族思いの姜維であれば「故郷にいつでも行ける、帰れる」というのは非常に魅力であり、逆に言うとそれができない現状は胸をすくような状態であったと思います。

しかし荊州の人間にとって蜀漢が漢陽郡を押さえているかどうかというのは、姜維ほど重要なテーマではありません。むしろ荊州勢は北より東に目を向けることが多く、呉とどういう関係でいくか?ということをメインに考えていたふしがあります。荊州の出身者にとって、姜維の想いというのは「まったく関係の無い話」なのです。

ただでさえ出身地が違うことで孤立しがちな姜維、「故郷に帰りたい」という切なる願いを胸に戦いを続けていたのだとしたら…

無謀とも言える北伐に、彼が全身全霊を打ち込んだのもうなずけます。もっともそれに賛同してくれる味方が同僚の中にいたとは思えませんが。

劉備と縁

※2007年2月4日追記

乱世のカリスマ

血のつながりと地のつながりが重要視されていた当時の中国社会において、自らの魅力によって強固な結びつきを生み出し、挙句に皇帝にまでなってしまった人物がいます。その名は劉備(玄徳)。自称とはいえ一国一城の主として成功した(と言って良いでしょう)彼の生き様とはどのようなものだったでしょうか。

まず劉備という人物についてですが、よくある雑本の影響からか頼りない人格者というイメージを持つ人が多いように思います。よく勘違いされる方が多いので書いておきますが、劉備は、いわゆる劉備軍の中では生粋の軍人であり、その作戦指揮能力もさることながら、軍略戦略ともに最高峰といって差し支えない人物でした。会う人ことごとくが彼の魅力と大きさにほれ込み、妹を妻に差し出したり同盟を持ちかけたり土地を渡したりするという特徴もあります。良くも悪くも他と違う。それが劉玄徳です。

早い頃から有力者として台登していた袁紹や後の曹操も劉備を大変意識し、特に曹操に関しては劉備が手元にいる間は破格の待遇で劉備をもてなしています。No2とまでは言わないにしても、同じ席につかせたり車に乗せたり朝廷に働きかけて将軍位を用意するように働きかけたり・・・と、関羽に対するそれと比べると大変な優遇振りです。もっとも劉備はその曹操の下をあっさりと去りますが。

劉備の面白いところは行く先々で人々の心をとらえていることです。とくに有力者になるほどその傾向が強い。荀彧あたりはその部分を敏感にとらえ、劉備が曹操の手元にきたとき「すぐに劉備を殺すべき」と進言しています。ただ劉備はそのころすでに名声が高まっていたようで、世間体や矜持を気にする曹操は劉備を殺さず、結局手元からはなしてしまいます。

曹操にかぎらず、劉備は、その一生の中で袁紹・呂布・劉表・孫権といった一癖も二癖もある連中のもとを転々としました。その中で一度ならず命を狙われるようなこともあるわけですが、劉備はそれをかわしつつ、時には大打撃を受けながら流浪を続け、しかしけして斃れることなく行く先々でさまざまな人物を拾っていきます。

ところで、ここで注意してほしいことは、「幽州出身」の劉備に各地の人間がついていったということです。

陳親子や陳羣、あるいは徐庶のように劉備のもとを離れた逸材はいます。ちょっと状況が違いますが黄権もそうですね。彼らは地縁や血縁を守るため、家族のため、あるいはやむにやまれぬ事情で劉備の元を離れます。逆に言うと、そういった強い何かが無い場合、多くの人間が劉備に付き従ったと言えます。これは大変重要なことで、というのも、劉備が腰を落ち着けるようになったのは実質蜀入り前後であり、それまでは「たんなる皇帝の血族を自称するおっさん」に過ぎないんですね。ついていっても利になるような人間では無い。簡単に言うと金になるような人間ではなかった。

地域に根付く共同体意識が強い当時の中国において、そういった人物についていくために「故郷を離れる」というのは小船で海に飛び出すようなものであり、大げさに言えば命を預けるような行為です。それを可能にした劉備の魅力とはどのようなものだったのでしょうか。

人物眼

劉備の人選として面白いのが、蜀入り後に攻略した要所漢中太守に魏延を起用したことが挙げられます。前評判では張飛がその任にあたるとみなが思っていた中で、劉備は魏延に漢中太守の心構えを聞き、満足して漢中を任せます。その後の統治について問題が無かったことを考えると劉備の人材配置はなかなかに面白いものだったと言えるでしょう。

劉備はその前に後方支援地域である荊州に関羽を置きました。この人選に関しては現在あちこちで議論の題材となっていますが、それはさておき、もしこの時点で「旗揚げ以来つれそってきたもっとも親密な間柄である関羽」を要所に置いたのだとすると、先の話とつじつまがあいません。縁故採用ではなく何かしらの理由があって人材を置いていたように見えます。後日関羽は天運及ばず自滅しますが、曹操や孫権が震えて手が出せないくらいの活躍をしていたところを見ると、関羽を荊州に置いたのも悪い人選ではなかったのかもしれません。

また、劉備はその後前後左右将軍を決定する時にはやはり降将である馬超と黄忠の位置を張飛の上に置きました。順番は関羽(前将軍)>黄忠(後将軍)>馬超(左将軍)>張飛(右将軍)です。ちなみに趙雲を入れて五将軍とするのは演戯の創作。実際に5人目が決まるとしたらおそらく魏延が入るでしょう。

また政治の部分では、倫理的に多大な問題がある法正を重用したりもしています。もっとも法正に関しては実力相応の評価を下しているだけという見方もできますが、当時の社会における世風だとかいったものを過大評価せず、実力によって才人を起用しているのはさすがと言えるでしょう。これを可能にしたのは、劉備自信が、血縁や地縁から切り離された人生を送ったからだともいえます。蔡家の力によって見動きが取れなかった劉表や連合政権のまとめやくにすぎない孫権と決定的に違う点がここです。劉備にはその時代当然とされていた『縁』が無い。だから縁による制約を受けない。能力主義だと思われている曹操ですら血縁を大量に重役につけています。

このように、劉備は当時の有力者の中では異端といえるほど「個人」を見ています。家柄とかじゃないんですね。当時当たり前とされていた縁ネットワークを無視した独自のつながり。これこそが、従来の縁システムによる出世ルートから外れてしまった人間や寒門出身の人間が命を預ける土壌となったのです。多くの人間が劉備に付き従ったのはこのあたりにあるのではないでしょうか。

避けられない戦い

さていきなり劉備の最期に飛んでしまいますが、劉備死亡の原因に、西暦222年の対呉における大規模な敗戦があるといわれています(夷陵の戦い)。戦端の火種となったのは関羽の死。盟友孫権は曹操とともに関羽を討ち、その首は曹操のもとへ届きました。

夷陵の戦いに関してはまた後日詳しく説明しますが、ともあれ劉備は長年自分に従い各地をわたってくれた人間を失うことになりました。その後、劉備は孫権に対抗するため荊州に侵攻するわけですが、この戦争に関しては以下の人物が制止の声を上げています。諸葛亮、趙雲、そして黄権です。

このとき最初に声をあげたのが諸葛亮と趙雲。この二名は劉備によって居残りを命じられます。「法正がいれば止められたかもしれない」と諸葛亮が後日嘆くわけですが、体を張って、それこそ法正のように命がけで止めるということは、両名ともやっていません。わりと簡単にあきらめています。

その後、黄権は総大将が先行する危険性を指摘したために左遷されます。結果的に劉備は名将陸遜の前に敗北して撤退し、撤退に遅れた(置いていった)黄権も魏に奪われるという大敗北・大失態をするわけですが、さてこのときの劉備の孫権領内への侵攻を本当にとめることができなかったのかが問題になります。

結論としては否です。

前述したとおり、劉備にはいわゆる縁がありません。それは劉備の周りにいるものの多くも同じことです。主を捨てたもの。罪を犯した者。縁を捨てたものなど・・・。劉備軍の主力は、いわゆる縁プログラムから切り離された(あるいはあぶれてしまった)人物で構成されています。縁が無い以上、それに変わるつながりが求められる。劉備がもとめたのは、地縁でもない血縁でもない、魂のつながり。そしてそのつながりを邪魔した孫曹に対し劉備は攻撃をしなければならない。勢力同士のパワーバランスどうこうの問題ではなく、つながりを絶った外敵を攻撃しなければ、ついてきてくれている人々に「示しがつかない」のです。したがって関羽が死んだ時点で劉備は孫権を攻撃しなければならないのです。そういうシステムで戦ってきたのだから。

従来の共同体システムとは違う心と心のつながり。これによって劉備は人をひきつけ人を集め成功しました。しかしその人のつながりによって劉備は自らを滅ぼすことになったのはなんとも皮肉な結果と言えます。

引き継がれない想い

まったく新しいシステムで時代をかけぬけた劉備は臨終の際、信頼する諸葛亮に全てを託します。もし、わたしの息子である劉禅が頼りないならあなたが指導者となれ、と。つまり血縁としてもっとも跡継ぎにふさわしい劉禅ではなく、実力相応の諸葛亮が国を動かすという選択肢を提示したのです。ここにも、従前の縁システムにとらわれない劉備の柔軟さが見てとれます。

しかしながら諸葛亮は劉備のような、縁を超越した運営はしませんでした。彼はもともと縁ネットワークを重視・利用した人物であり、その後は継続して荊州派閥を中心に蜀を固めます。劉備によって作られた里や血縁を前提としないまったく新しい縁のシステムは、劉備が死ぬことで消えてしまったのです。

参考書籍

参考URI

*1 郷挙里選

地縁共同体里による推薦システムすなわち「郷挙里選」は、紀元前より行われていた由緒ある人事登用制度でした。しかし「とかく金のかかる」システムであったことは否めず、特に後漢末期では金持ちの親分(豪族)がその「有力者」になることがおおく、こういった豪族が次々と人物を中央に送り込んで自分に都合の良いように政治を動かそうとする豪族が後を絶たなかったという弊害もあったようです。

この習慣を改善するため、西暦220年、魏の曹丕は陳羣のすすめにより九品官人法を制定・施行します。これにより人事システムは地域有力者の徳行主義から、中央政権よりの能力主義へと変わりました。もっともそれはたてまえで、ふたをあけてみると九品官人のうちの重要なポイントは豪族に抑えられていたようです。

*2 人相見

実際に諸葛亮を臥龍と称したのは司馬徽ではなく龐徳公(龐徳)です。同様に、龐統を鳳雛、司馬徽を水鏡と称したのも龐徳公です。

*3 費禕と姜維

軍事行動である北伐に否定的であったのは蔣琬や董允であり、費禕に関してはむしろ姜維に協力的であったのではないかと見る見方もあります。この見方によれば、姜維が「出身地が異なることで孤立する」ということはありえません。以下の論も見直す必要がありそうです。

※参考 『姜維と黄皓の攻防 --思而不学 --むじん書院』(2005-01-26追記)

This is Chinese GARDEN/ created by SILVA