死者に鞭打つ

最終更新
2005年08月27日

楚人

楚人は「そじん」ではなく「そひと」と呼びます。楚の(地方の)人、という意味ですが、なぜか昔から楚人は血の気の濃い人が多かったようです。今回取り上げる主人公伍子胥【ごししょ】も楚人ですが、やはり例に漏れず苛烈な性格の持ち主でした。

日本人にもっと分かり易い楚人と言うと、四面楚歌の項籍(羽)【こうせき】が挙げられるでしょう。天才的な軍事センスと苛烈な性格でもって天下統一間近までいった英雄ですが、その苛烈すぎる性格が災いしたのか、最後はライバルの劉邦【りゅうほう】に足をすくわれて自刎してしまった英雄です。

伍子胥は項羽の300年ほど前の人物です。従って項羽を伍子胥の引き合いに出すのは順序が逆なのですが、おそらく日本人の多くは「項羽は知ってるが伍子胥は知らない」というのが通常だと思います。しかし臥薪嘗胆呉越同舟といった四字熟語を知ってれば呉王や越王あたりを連想し、そこから伍子胥も連想してもらえないかなぁなどついついと思ってしまいますが、ともあれ史記の中ではかなり有名な人物です。ついでに言うと人気者です。

楚を追われて呉に入る

伍子胥は楚の人だと言いました。楚は長江(揚子江)の上流にある地域で、地図で言うと蜀の手前、永安の辺りでしょうか。その一帯を楚と呼びます。

呉は長江の下流。越はその南にあります。会稽の恥という言葉がありますが、ちょうど会稽の辺りが越です。地図で見ると北と南という単純な位置関係に見えますが、実際に越から「外」へ出るには呉を抜ける以外はありません。地形的な問題です。そして呉越同舟の名のとおり、この二つの地方は昔から仲が悪いことで有名でした。春秋時代もこれは同じで、呉と越は出身地が呉と越であるという理由だけで敵対する仲です。

伍子胥がまだ楚にいたころ、楚国の王位継承争いに巻き込まれます。伍子胥の父親は楚の重臣でしたが、この父親が楚王の怒りを買って捕らえられてしまいます。重要な役職にあるものの逃れにくい運命というべきでしょうが、父親の逃れられない死を前にし、伍子胥は一旦楚から離れて復讐しようとします。この時兄も誘うのですが、兄は「長子としての責務を果たす」ため楚に残り、父親とともに命を落とします。伍子胥は楚を脱出し、一家の仇をうつために戦います(*1)

とはいえ伍子胥自身につてがあるわけではありません。彼は誰に仕えれば自身の復讐が果たせるかを見極めるために人を捜します。ここで失敗すれば悲願成就が遠のきますから、自然と伍子胥も慎重になります。彼は呉の中でも往来のはげしい橋の下で暮らしながら長い年月をかけて主を捜したと言われます。そして呉の公子【こう】(のちの呉王闔閭【こうりょ】)と出会います。

いざ、復讐の時

伍子胥を得た呉は楚を打ちます。もともと戦争が得意な闔閭と復讐にも燃える伍子胥、さらに孫子の代名詞である孫武を従えた呉軍は、当時中華最強の国のひとつであった楚を上回る軍事力で楚に壊滅的な打撃を与えました(*2)。呉に亡命してから十四年、ついに伍子胥は祖国楚に戻ってきたのです。

しかし親の敵であった楚の平王は老衰して、すでにこの世の人ではありませんでした。

「日暮れて途遠し」

伍子胥は平王の子、昭王すら取り逃がし、復讐の対象を逃したことで悲嘆に暮れます。が、嘆いただけでとどまらないのが楚人の楚人たる所以で、伍子胥は平王の墓に参り、墓を暴きます。そして出てきた死体に鞭を打ちつけ、粉々にします。粉々になるまで鞭打った、と表現したほうが良いでしょうか。鞭打つこと300と言いますが、とにかく伍子胥の苛烈ぶりが最もよく出ているエピソードです。「死者に鞭打つ」の由来はここにあるのかもしれません。

それにしても、この時の伍子胥はそれなりに歳を取っているはずです。一人で墓を掘り起こし死体が粉々になるまで鞭打つというのは尋常ではありません。伍子胥を主人公とする物語なら拍手喝采ものの場面ですが、死者に鞭を入れる伍子胥の鬼気迫る様子に、一緒に来ていた従者は物もいえなかったと聞きます(*3)

臥薪

伍子胥を得た呉軍の勢いはとどまることを知らず、呉の仇敵であった越国をも破ります(会稽の大戦)。この時の伍子胥の主は呉王夫差【ふさ】。伍子胥は越王句践【こうせん】を殺すように進言しますが、夫差はそれを無視して越王の降伏を許します。

国を奪われた者が胸に抱くもの、すなわち「復讐」の力というものを、伍子胥は身をもって知っています。越王を生かしておけば必ず間違いが起きる。絶対に殺すべきだという伍子胥に対し、呉王は首を縦に振りません。

呉王夫差が越王句践を殺さなかったのは人道的な配慮というより勝者の余韻に浸りたかっただけのような気がします。夫差は中央文化への憧れが強く、「仇敵すら許す寛大な名君」としての自分の姿に酔いしれていたのでしょう。これは晩年の中原への無理な出兵を見ても分かります。夫差の心中は、呉や越といった「ちっぽけな」話よりも「中原の支配者夫差」のほうが大きく占めていたように思います。

これと対比するように伍子胥の存在があります。これは想像ですが、おそらく夫差にとって伍子胥は心許せる友人でもなく、慕うべき師父でもなく、単なる口うるさい老人程度の認識しかなかったのではないでしょうか。伍子胥の軍事的才能は認めるものの、かたや中原文化に憧れを抱く青年にとって復讐のためだけに人生を捧げた老人は敬愛の対象というよりはむしろ侮蔑の対象であったように思います。私は死者に鞭打つような野蛮人では無いのだ、と。

越王を許すことを決めた夫差でしたが、伍子胥は「これで呉はいつの日か越に滅ぼされるぞ!」と公言しました。「儒子のせいで」と言ったかどうかは知りませんが、これを聞いた夫差はますます伍子胥をうるさく感じます。夫差と伍子胥の溝は深まるばかりでした。

嘗胆

越王は表向き呉王に忠誠を近います。それはそれはへりくだった態度で、越王の従順さを見れば見るほど呉王は鼻が高くなります。越王は毎日野良仕事に精を出し全く謀反っ気がありません。伍子胥はそれを見て「あれは演技だから気を抜くな」と夫差に忠告しますが、この頃になると夫差は伍子胥の言をことごとく無視するようになります。伍子胥のおかげで勝てた戦、それすら自分の実力で勝てたものと思うようになり、伍子胥をますます軽んじます。

この時呉王の傍には一人の美女がいました。名を西施【せいし】といいます。これは越王から進呈された美女なのですが、中国四大美女の最初の一人と呼ばれています。残りは王昭君、貂蝉、楊貴妃です。案の定と言うべきか、西施は越王のスパイでした。しかし夫差は西施の魅力に心奪われているので気付きません。

絶世の美女とは傾国の美女でもあるようで、夫差は西施とともに毎日宴会をしたり宮殿を建てまくったりして国力を衰退させます。美女をもって権力者を骨抜きにするという手は古来より使われていた有力手段で、男というものは美女にベッドで甘い言葉をささやかれると割と簡単に馬鹿なことをします。それはさておき、西施は殷の紂王のもとに送り込まれた妲己よろしく夫差を惑わします。

勘の鋭い伍子胥は西施が越王の送ったスパイだと見抜いていましたのでたびたび夫差を諌めます。しかし夫差は「またいつもの諫言癖が始まったか」とまともに取り合いません。一方で西施は伍子胥に素性がばれてはまずいので夫差から伍子胥を遠ざけようと画策します。「伍子胥が自分を嫌らしい目で見るので襲われはしないかと不安だ」程度のことは言ったのでしょう。ますます夫差は伍子胥を遠ざけます。

そして夫差はついに中原へと大規模な出兵を決めます。伍子胥は「そんなことをしたら留守を句践に奪われる」と猛反対しますが、はじめから夫差は伍子胥の言う話を聞くつもりがありません。伍子胥の警告を無視して出兵を決め、良い機会だということで口うるさい伍子胥に死を命じます。

ここで伍子胥は逆切れして「自分が死んだらこの目玉を城門にかけよ。越軍がこの国に侵入してくる様を見届けてやるぞ!」と壮烈なことを言って死にます。しかし城門に目玉をのせるという伍子胥の希望は叶いませんでした。夫差は伍子胥の死体を長江に捨ててしまったのです。

その数年後、呉の隙をついた越によって夫差は捕らえられます。まさに伍子胥が予言した城門から越軍は侵入してきました。この時句践は助命を望む夫差を許そうとしますが、軍師の范蠡に「伍子胥をお忘れか」と言われ、夫差を殺すことにします。夫差は「死んで伍子胥に合わせる顔が無い」と顔を覆いながら死んでいったそうです。

おまけ

臥薪嘗胆というのは越に破れた呉王、呉に破れた越王がそれぞれ薪の上で寝たり胆を嘗めたりすることで積年の恨みを忘れずに悲願を果たした故事に由来します。薪は寝るには相応しくない痛い物ですし、胆も嘗めるにはよろしくない苦い味のするもの。このように自分で自分をつらい場所におくことで恨みを忘れずに最後は復讐を遂げるという壮絶な話ですが、これはむしろ逆ではないかと見る見方もあります。

たとえば今回登場した伍子胥に関しては薪の上に寝ることも胆を嘗めることもありませんでした。呉王に薪の上で寝ることを進言したのかどうかは知りませんが、亡国の悲しみを大声で泣くことで忘れずにいようとする呉王夫差を、むしろ蔑むように見ていたという話があります。そこまでしなくては恨みを忘れてしまうのか。大声を出さなければ忘れてしまうようなちっぽけな恨みなのか、と。

事実、伍子胥は薪の上で眠ることも胆を嘗めることも大声を出すこともありませんでした。その必要が無いくらいに復讐の炎で心が満たされていたためです。むしろ自分で自分を追い詰めなければ時間によって薄められてしまう復讐心しか持たなかった呉王や越王のほうこそ常人であったと言えます。伍子胥の悲劇はそういったところにもあるのかもしれません。

なお伍子胥はその苛烈すぎる性格にもかかわらず中国内では人気があります。当時においても長江に投げ込まれたことを知った地域の住人が不憫に思って祠を作ったくらいです。民衆が祠を作るほどに愛された(?)人間というのは史上でも稀です。死を悼んだという点で言えば三国志では黄蓋あたりでしょうか。あれほど人気があったといわれる周瑜が死んだ時すら特になにも無かったはずです。

伍子胥はこの後怨霊神として信仰されますが、中国において神となるのは民衆から支持があった場合がほとんどです。三国時代(厳密には後漢)で言う関羽のようなものですね。死を憐れんで祠を立ててもらったり、怨霊とはいえ神様として奉られたりするところを見るに、伍子胥の人気は中国においては相当なものであると思います。

[2005年8月27日 補記] 今回の伍子胥の話は史書や逸話や伝承などを織り交ぜて書いています。史記第68巻の伍子胥列伝に関する翻訳は別に行っていますので興味がある方はそちらもご覧ください。

参考書籍
*1 修正事項

2004年11月の更新の段階では父親の死が前後していましたので修正しました。

*2 修正事項

2004年11月の更新の段階では「当時呉は越との戦争に破れ、越の支配下にありました」とありましたが、誤りなので修正しました。

*3 悪鬼の所業か

いくら楚人が苛烈だといえ、死者を辱める行為は褒められたものではありません。伍子胥の友人であった申包胥は「君の仇討ちは正道じゃないよ」と人をやって言わせ、伍子胥が滅ぼした楚を再興させるために秦の助力を得ます。この結果、楚は完全に歴史の表舞台から消されることはありませんでした。

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