如其不才君可自取

最終更新
2005年9月27日

軍師論

いま当たり前のように使われる軍師という言葉。軍師とひとたび検索すれば、世間一般で当たり前のように使われている「軍師≒参謀」の図式が、誤った解釈であると分かる。しかしながら、テレビや新聞で軍師という言葉が一般的に使用される場合、やはり「軍師≒参謀」として使用される場合は少なくない。WEB総合辞書として名高いWikipediaも例に漏れず「軍師≒参謀」論から脱却できていない。これは三國志演義や各種民間講談もの、あるいはテレビゲームなどの影響が大きいと思われる。

軍師という文字は師と軍から出来ている。師はそのまま「師」だ。これは中国においては決して逆らってはいけない者のうちの一人として考えられている。残るは父であり、残るは君である。日本における家父長制とは違った意味で、純粋に尊び、敬うべき対象として考えられている者である。たとえ世界を席巻した帝王であろうとも、この三者には逆らえない。これを総じて三尊と呼ぶ。

軍師は師であるから、三尊と考えてよい。天下、すなわち中華を治める王の師である。後に魏呉蜀三国時代の蜀漢の王となる劉備が諸葛亮を軍師将軍につけたとき、パトロンとして劉備に貢献した麋竺よりも座席が低いことを指摘する人がいる。正史にある以下の点を見てのことであろう。

(麋竺は)益州が平定されると安漢将軍となり、席次は軍師将軍諸葛亮を上まわっている。

(許麋孫簡秦伝第八/むじん書院)

師は三尊のひとつであり、それは俗世の上下関係を超越している。したがって、ここで麋竺と諸葛亮の席順を論ずるのは見当違いだ。劉備は諸葛亮を「師」として迎えており、その時点では王を教え導くための職種である宰相位につけることができなかっただけである。劉備が諸葛亮を迎えるには国王でなければ分不相応なのだ。王となってはじめて国家の大事を任せられる最高職である宰相位につけることができる。そして劉備は、蜀漢を建国した際に諸葛亮をもって丞相位に「就いていただく」のである。ちょうど子が父を敬うがごとく、臣が君を尊ぶがごとく。軍師将軍という座席は宰相位を用意できない劉備が便宜上設けて「座っていただいた」職にすぎない。

よく諸葛亮は劉備の臣下であるとか参謀であるとか言う人がいる。違うのだ。劉備にとって諸葛亮は、俗世のしがらみを超越した、ある意味神のごとき人物であり、そこには打算も何も無く、子が父を敬うかのような純粋な敬慕があるのみである。見ようによっては「劉備が諸葛亮の下にいる」とすら考えられるだろうが、三尊とは、そのような単純な人間関係で捉えきれるような小さなものではない。

後、劉備臨終の際に、劉備は諸葛亮に対して次のように言っている。「あなたに国家を託します。私の息子が不甲斐なければ、(国を導くべき『軍師』である)あなたが、この蜀漢を導いてください」と。これは信頼される臣下と国王の会話ではない。劉備が終生をかけて見つけた、『師』との会話であり、請願である。英雄と呼ばれ、梟雄と呼ばれ、同時代の誰からも一目置かれていた男の願い。そしてそれを受け取った諸葛亮。水がなければ魚は生きていけない。ここにきて、水魚の交わりの真の崇高さを垣間見ることができる。

「われは古の管仲楽毅とならん」

諸葛亮が若かりし頃に思い描いた理想、管仲は「管父」と呼ばれ、やはり桓公の「師」であった。

劉備が先生と呼び、慕い、敬い続けた偉人諸葛孔明。軍師という言葉がもつ本当の意味を知るだけで、歴史はまたあらたな輝きでもって私達の前に姿を見せる。学問のなんと素晴らしいことか!

考察

軍師とは君臣の関係で論ずることはできない、ある種神聖なものです。一度その人を「師」とするなら終生をかけてお仕えするのが、古代中国において当然な価値観です。大日本帝国にも親族に関する侵害行為は通常の侵害行為よりも重く罰するという法律がありましたが、君・師・父に対して並々ならぬ崇高の念を抱きこれに従うという点から見ると同様なものであったのかもしれません。

劉備が諸葛亮を招いた時に自分から自宅へ三度訪問したのは大袈裟すぎる、ありえないとする学者もいますが、劉備が自ら「師」として崇めようと思ったのであれば、三度の訪問はむしろ当然ではないかとも考えられます。天下を掌握した王であっても呼びつけるのではなく自ら訪問する故事もあります。そういった中で劉備は当時参謀として側に置いていた徐庶から「呼びつけてくるような男ではない。あなたが行かなくては」と説かれ、「それならば」と腰を上げるのです。

仮にも同時代の誰からも一目置かれる英雄が、側近に説かれたからといって自分から足を運ぶのはやはり大袈裟な行為だと思う人もいるかもしれません。しかし、まだ会ったことも無い人間を「師」として迎えるのであれば、会う前から「師」に対して礼をはらうというのは、別に珍しいことではありません。この礼を失したものとしては司馬徽を招こうとして失敗した劉琮がいい例です。

劉表の子劉jは司馬徽に会うため出かけ、使者を派遣して在宅がどうか確かめさせた。ちょうど司馬徽はみずから鋤を手にして畑を耕していた。劉jの側近が「司馬君はご在宅かね?」と訊ねると、司馬徽は「私がそうです」と答えた。側近はその無様な姿を見て「腐れ人夫め。将軍がたは司馬君にお会いなさるおつもりだ。なぜ貴様ごとき農奴がそうだと自称しやがるのか」と怒鳴りつけた。司馬徽が頭を刈って頭巾をかぶり、家から出てきて劉jに会った。側近が司馬徽を見るとさっきの老爺であったので震えあがり、劉jに告げると、劉jは土下座して謝罪した。

(司馬徽別伝/むじん書院)

まだ会ったことも無い親子ほどの年齢差がある不世出の若者を「師」と決め、その赤心をあらわにするかのように自ら赴く劉備の行為は、むしろ彼の英雄肌を示しているのでは無いかと思います。太公望のエピソードであれば誰も疑わないにも関わらず、なぜ劉備が諸葛亮を訪問したら「誇張だ」と言えるのでしょう。

賢人を招くためなら自分から赴くべし。劉備はこういった故事を知っており、かつそれを実行することができるだけの心をもっていたということです。そしてそれに気付かせたのが徐庶だったのでしょう。けして「側近に言われたから行ってみた」という類いのものではありません。もしそうであれば、旗揚げ以来、まるで兄弟のごとく置いていた関・張へ対する「水魚の交わり」発言や、建国後の丞相位への抜擢、臨終時に「あなたに後事を託したい」と発言した一連の行動がふいになります。

見たことも無い若者にそこまで傾倒できる劉備という英雄性を、凡人には真似できないという点で否定するのは如何なものでしょう。

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