顔氏之徳

最終更新
2005年8月13日

諸葛瑾

しょかつきん 174〜241

呉の大将軍。字は子瑜【しゆ】。琅邪国【ろうやこく】陽都県【ようとけん】の生まれ。後漢末期の動乱を避けるために江東に移住した。この時代で二字姓は珍しいが、その由来は琅邪国諸県から陽都県に引っ越す際に、もともと陽都県にいた葛氏と区別するために「諸葛」と呼ばれたのがはじまりであるとか、あるいは前漢光武帝が葛嬰【かつえい】を琅邪国諸県に封じたことから諸葛と名乗るようになったのだと言われている。どちらにせよ、古い先祖は葛氏であることには違いない。

孫策【そんさく】が亡くなると、孫権の親戚である曲阿【きょくあ】の孔咨【こうし】に推挙されて孫権陣営に招かれた。孫権は諸葛瑾を魯粛【ろしゅく】と同列の賓客として迎えた。魯粛は孫策の義弟であった周瑜の熱烈な推薦があったわけだが、早くから諸葛瑾の力を感じとって同列に置いた孫権の眼力が窺える。

このころ孫権陣営は、カリスマ的な指導者であった孫策を失い動揺していた。豪族の勢力が強い江東の地において、孫権は、求心力の低下による有力者の離心を恐れた。江東の実態は有力豪族のあつまり、すなわち連合政権に他ならない。そこで孫権は江東で名のある名士を次々と採用して勢力の瓦解を防いだ。諸葛瑾もその一貫で抜擢されたものと思われる。

孫権の長史をつとめた諸葛瑾は、以後功績が認められて中司馬職へ任ぜられる。

諸葛瑾は孫権をたびたび諌めることがあったが、張昭【ちょうしょう】らのように直接面と向かって孫権の非を正すというようなことはしなかった。孫権自身(歳をとってからも)幼い面があり、諸葛瑾のような「自分で理解させる」説得は、孫権のような人間にとっては効果的であったかもしれない。

あるとき、孫権は朱治【しゅち】に不満を持つようになった。しかし朱治は孫権を孝廉【こうれん】に推薦してくれた恩師である。自分から乗り込んでいくわけにもいかないので、孫権は大層居心地悪くしていた。諸葛瑾は孫権の気持ち察し、自分名義で朱治に訪問させてくれるように願った。そして孫権の面前で〔朱治に渡す〕手紙を書いたところ、それには物事の道理や孫権の心情を〔婉曲的ではあるが〕見事にうつし出していた。

面と向かって朱治を攻撃しても角が立つ。とはいえ、それが分かっているからこそ真正面から不満を言えない孫権の気持ちも分かる。そういった微妙な議題をかけられたとき、諸葛瑾という人物は、孫権も朱治も傷つかない処置ができる男であった。張昭あたりだと逆に孫権を言い負かしたかもしれない。

手紙を読んだ孫権は朱治に対する怒りを忘れたかのように笑い、「君には顔回の徳がある」と褒めた。顔回とは孔子の弟子の一人で、他人を和ませる力を持っていた人物である。

のち、主孫権に変わらぬ忠誠を誓いつづけた諸葛瑾は出世を続け、孫権が帝位につくと軍部の最高司令官である大将軍と最高指揮官である左都督を兼任。さらに予州総督にも任命された。位人臣を極めたと言ってよい。

赤鳥四年。世を去った。遺言による葬儀内容はとても質素なものであったという。

考察

諸葛瑾は孫権からもっとも愛され、信用された人物の一人です。孫権には孫堅や孫策の代から仕えてくれていた古参の将が多くいたわけですが、諸葛瑾は孫権が孫家の主座についた後から幕下に加わりました。何かにつけて先代や先々代を口にする古参の老臣よりも、気心を通わせるには良い位置にいたものと思われます。

ところで、諸葛瑾の実弟は、あの諸葛亮です。同盟勢力ではあるが競争相手である劉備陣営に仕える諸葛亮。実弟が競争勢力にいるという事実を挙げて、諸葛瑾を讒言する人間は少なくありませんでした。諸葛瑾は荊州争奪戦で関羽を殺した呂蒙の後釜として南郡太守を拝命しますが、この時も「諸葛瑾は蜀と通じている」と孫権に吹き込む者がいました。もっとも孫権は諸葛瑾を深く信頼していたので、これを一笑に付しています。

曾参人を殺す。たとえ母であっても我が子を疑うのに孫権が諸葛瑾を疑わなかったのは、それほど孫権が諸葛瑾を信用していたと言えると同時に、諸葛瑾への讒言がそれほど執拗なものではなかったことが考えられます。諸葛瑾の人となりは他者の憎しみや嫉妬を招くものではなく、政敵と呼べる人間も少なかったのでしょう。

諸葛亮と公式の場で会うことはたびたびありました。建安20年のことです。しかし諸葛瑾は公式の場で孫権の使者として諸葛亮に会うものの、兄弟として個人的に会うことは無かったそうです。また赤壁前後の外交戦で諸葛亮を孫権陣営に引き込めないかと聞かれたときには「彼が劉備のもとを離れないのは私があなたの元にいるのと同じことです」と答えています。兄弟の絆を重要視する中国において珍しいと言えるでしょう。

それでは完全に兄弟としての絆を絶ったのかと見ると、そうではありません。諸葛亮は黄承彦から嫁を貰い受けましたが、子がいませんでした。そこで諸葛瑾は自分の実子を、養子として亮のもとに送っています。互いに仕えるべき主があるため一つところにはいられない。その中で彼が見せた弟への優しさでしょう。もっとも諸葛亮自身はその後、愛人との間に何人かの子をなしています。

諸葛瑾にも子はいました。その中でも諸葛恪という人物はたいそう機知に富み、覇気のある人物でした。ようするにやんちゃ坊主というわけです。孫権をはじめとした周囲のものは、諸葛恪の将来を期待します。「あの諸葛瑾の息子だ、無能であるはずがない」というフィルター越しに見る諸葛恪は、それはそれは賢そうな子供に見えたことでしょう。

しかし諸葛瑾は息子を冷静に見ていました。機知を弄ぶ者に大事は任せられない。諸葛瑾は自分の息子が自分の才略で身を焼くことを憂い、その懸念は現実のものとなります。新しい主の元で専横を働こうとした諸葛恪は誅殺されてしまったのです。そして諸葛恪の弟諸葛融は、諸葛恪が謀殺を待っていた孫軍に包囲されます。融は城内で服毒自殺しました。諸葛亮の息子たちは国のために命を賭して散っていきましたが、諸葛瑾の息子は保身のために戦い誅殺されたというわけです。

彼らがもう少し自己を省み、父を模範としていれば、宗廟を保つこともできたかもしれないと思うと残念でなりません。

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