不為忽袁公私明將軍也

最終更新
2004年12月10日

趙雲

ちょううん ???〜229

蜀漢の将。字は子龍。常山の生まれで槍の名手。はじめは公孫攅のもとにいたが、公孫攅が対袁紹戦時に劉備のもとに配属させたのがきっかけで親交を深める。劉備が袁紹を頼った時にはこれに馳せ参じ、劉備専用の兵士を調達することもあった。劉備は趙雲と寝床を共にしたというから、関・張とは違った意味で彼を信頼していたものを思われる。

劉備が曹操に攻撃されて南下する折には〔当時はまだ赤子であった〕後主劉禅とその母親甘夫人を守りながら南下した。陣内では「趙雲は裏切ったに違いない」と主張した人物がいたが、劉備は彼に対して手戟を投げつけ「趙雲が自分を棄てるはずがない」と反論した(手戟は殺人用具)。趙雲が後主を伴って帰還したのはその後である。牙門将軍に任ぜられた。劉備が蜀に侵攻する際には諸葛亮とともに荊州を守った。

趙雲は常に冷静で周りが見え、公私のけじめがつく男であった。

荊州制圧戦で趙範が未亡人となっていた絶世の美女である兄嫁樊氏を引き合わせたが、同姓であることを理由に丁重に断った。ある人がその理由について尋ねたところ、「趙範の行為は切羽詰ってのものであり本気とは思えません。天下に女性は尽きないのだから無理に焦ることも無いでしょう」と答えた。やがて趙範は劉備の元を逃げ出したが、趙雲は惜しいとは思わなかった。

また博望で夏侯惇と戦ったときに同郷の夏侯蘭を生け捕ったが、彼が才能ある人物であるからと劉備を説得し助命を嘆願。彼を憲兵隊長に推薦した。夏侯蘭は許されて劉備幕下に加わることになるが、以後趙雲が自分から夏侯蘭に接近することは無かった。公私混同での助命だと思われると夏侯蘭の立場がまずくなることを知っていたからである。

法に明るく公明正大な趙雲は二度、後主を救っている。劉備のもとに孫家の妹が嫁いできたが、彼女が自分の地位を傘に来て傍若無人の振る舞いをしていたころ、趙雲は彼女を抑える任を受けた。劉備が巴蜀に攻め入った機会を狙って孫権が夫人を呼び戻した折、夫人は後主を誘拐したが、趙雲は張飛とともに軍勢を率いて追撃し、後主を救出した。後主すなわち劉禅が趙雲を愛し、彼に諡号をおくろうとしたのは、こういった事件があったからである。

益州平定後、土民から半ば奪い取った形となる領土をどう配分するかの協議がなされた。土地も民も勝利者のものであるから配分の主体者が劉備軍であることには問題ないはずだが、趙雲はこれに反論。古の英雄霍去病が脅威が去るまでは家屋を建てなかった故事に倣い、得たものは本来の所有者である土民に返すべきと主張した。劉備はこれを採用した。命がけで戦った諸将は不満だったろうが、盗賊まがいの劉備軍にとってこれらの慰撫政策は重要な意味を持っていた。趙雲の言はそれらを踏まえた上でのものと思われる。

西暦228年。鎮東将軍の位にあった趙雲は鄧芝とともに曹真の大軍にあたる任を受けた。曹真が大軍であったのに対して寡兵であったため大敗したが、趙雲は殿軍として敗走する軍をよくまとめ、軍需品や補給物資を捨てることなく撤退したため軍に混乱は無かった。それを聞いた諸葛亮は趙雲に殿軍の功をねぎらおうと絹を与えようとしたが「敗戦の将になぜ恩賞があるのですか。この物資は蔵に入れておき、来るべき冬支度のために使うべきです」と言って受け取りを拒否した。諸葛亮はもっともだと思い、ますます趙雲を信任した。

その翌年、趙雲はこの世を去った。彼が死んだことを聞かされた諸葛亮は、ショックでしばらく立てなかったという。

考察

戦場での表立った功績は多くは無いものの、趙雲は常に冷静沈着で物事の分別があった人物だった。多少冗談が通じないものの世辞や虚飾で飾ることの無いその真っ直ぐな言動は、武官からも文官からも広く信頼されていた。趙雲は蜀漢四将軍(関羽・黄忠・馬超・張飛)の次席と目され、彼ら亡き後は魏延・馬岱らとともに蜀漢を支える。

趙雲は生前から多少ならず評価を受けているが死後さらに評価が高まり、民族話である三国志演義では五虎将として四将軍の仲間入りしている。控えめな彼の性格が功績を目立たないようにしていたからだろう。三國志の著者陳寿の評価も非常に高く、四将軍と趙雲を比較するのであれば趙雲が最も優秀であったとしている。

人が社会を形成するなかで、法の果たす役割は非常に大きい。公私混同や役得が嫌われるのはそういった社会秩序を乱し、ある特定の人物や集団が他者を不幸にして自己の権益を守る危険性が出るからであるが、趙雲はそれらを自らの行動でもって排除した。

こういった気質が諸葛亮の目にもとまったのであろう。もともと諸葛亮と言う人物は武官肌の人間と反りが合わないことが少なくない。関羽しかり張飛しかり。諸葛亮は自分と似た教養のある人物を周囲に集めるのは好んだが、力自慢の無教養な人物を愛していたと見るに足る資料はない。その中で武官代表格の趙雲を信頼して重んじたのは、趙雲の法に対する真っ直ぐな姿勢を見たからではないか。

西暦229年。彼は世を去る。天寿であろう。諡号は順平侯。法と秩序を重んじる彼に相応しい号を与えることができた劉禅は、満足だったに違いない。

This is Chinese GARDEN/ created by SILVA