君臣倶失

最終更新
2004年12月10日

龐統

ほうとう 179〜214

後漢の臣。字は士元。荊州の生まれ。人相見の権威である龐徳公に鳳雛(=鳳凰の雛)と称されるほどの才能をもっていたが、美男子でないうえにのんびりとした印象を受ける風貌をしていたため、一目でそれと見抜ける人は少なかった。あるとき、荊州の名士である司馬徽(徳操)が龐統と語らう機会があった。彼と話しているうちに(話に熱中してしまって)日が暮れてしまったことを知った司馬徽は驚いて「この者はかならず大人物になるに違いない」と彼を褒め称えた。以後龐士元の名は広く知られることになる。

南郡太守周瑜が没すると、その遺体を伴って呉に赴いた。その後荊州に戻ろうとしたが(彼の名はすでに広く知れ渡っていたので)見送りに来る人で昌門はあふれた。その中には陸績、顧劭、全琮の姿もあり、彼らは龐統に人相見を願った。龐統は的確に彼らの才をいい当て、意気投合した彼らは「天下泰平の折にはともに四海の(=あちこちの)士を評価しようではありませんか」と語りあい、再会を願った。龐統は自身も人相見としての才幹を持っていたのである。

龐統の人相見は多少大袈裟なところがあった。ある人がその理由について尋ねたところ、「つまらない人間であっても見所があると太鼓判を押してやれば奮起することがある。その奮起した中の半数が実力以上の力を発揮する(≒世のため人のために働く)のであれば、多少の誇張は許されるだろう」と答えた。

その後劉備に仕える。はじめは従事の職にあったが真面目に仕事をしないので解任された。その後事情を知った諸葛亮や魯粛らの薦めもあって上位の役職である治中従事に任命される。彼の才能はより大きな仕事で無いと意味が無いと説得されたためである。以後劉備の龐統に対する信任は諸葛亮に次ぐものとなり、益州攻略戦では諸葛亮ではなく龐統を参謀として起用するほどであった。

冷静に物事を判断し直言を憚らない彼は、劉備軍きっての軍師として活躍する。益州攻略戦では見送りにきた劉璋を即座に捕らえるように進言したり、重い腰を上げて益州を攻略した劉備が宴会中に「楽しい」と発言したのを受けて「人の土地を奪っておきながら楽しいとは仁者の戦いとは言えませんな」と衆人環視の中で言い放った。劉備の失言で蜀の民の信頼を損なう危険があったためである。常に冷静で客観的に物事を判断し理性に基づいて行動するところ万事このようであった。

その後も益州攻略戦に随伴するものの、戦場で流れ矢を受けて戦死。36歳という若すぎる死であった。諡号は靖侯。

考察

常に冷静で周囲を把握し、私情を挟まず合理的に動く。龐統は劉備が得た数少ない「軍師」と呼べる男の内の一人であった。もう一人は法正である。彼や法正が生きていれば蜀漢の辿った道筋はもっと違うものになっていたかもしれない。曹操にとっての郭嘉、孫策(孫権)にとっての周瑜のような人物であっただろう。

劉備の全盛期は益州攻略時である。荊州には関羽がおり、治世に才を発揮する諸葛亮らが支えていた。益州の兵は精強であったが、龐統や法正らの策謀により次々と劉備軍は巴蜀を飲み込んでいく。巴蜀の老将厳顔や勇将黄権、西涼の猛獣馬超らの軍勢を吸収したのもこの頃である。三国演義では五虎将と呼ばれる将を得たこの時期が、劉備軍がもっとも精彩を放っていた時期である。

それを実現させたのは龐統や法正の力である。ちょうどこれは斉の桓公が管仲を、漢の劉邦が張良を側において提言に耳を傾けたために成功したのとよく似ている。劉備は桓公や劉邦と同じくそれほど頭の出来が良いような男ではなかったが、苦言を受け入れる度量があったため成功した。と同時に彼らが側を離れたり、それらの提言を受け入れる余裕がなくなったとたんに失敗したのも良く似ている。

龐統は益州攻略時に劉備が「楽しい」と発言したことに対して「それはまともな君主の言うことではない」と真っ向から言い放った。すると劉備は自分を古の英雄武王になぞらえて「何が悪いのだ馬鹿者」と叫んでいる。益州の民にとって劉備は部外者、盗賊の群れに過ぎない。益州の民の機嫌を損ねる危険性を考慮した龐統は瞬時に劉備を諌めたのである。龐統の大胆な言動によって劉備の失言よりも龐統の苦言のほうが目立ったが、龐統にとってはそれも計算しての発言だったかもしれない。

その後頭を冷やした劉備は龐統を呼び戻した。顔色変えずに酒を続ける龐統に対し、劉備は、「先ほどの議論はどちらに非があったか」と問う。〔10対0で劉備に非があるにも関わらず〕龐統は「君臣共に間違っていた」と返した。劉備は機嫌を直して宴会を再開したが、龐統が君主である劉備の失敗の責任を、私が半分負担しますよと言ったことに気付いただろうか。

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