吾日暮途遠

最終更新
2006年7月7日

はじめに

稀代の復讐王といえば伍員(子胥)【ごうん(ししょ)】でしょう。楚の忠臣であった伍挙【ごきょ】の孫で、伍挙が楚王旅【りょ】の覚えがめでたかったことから、王位継承時の政権争いによるゴタゴタに巻き込まれます。その結果、国を追われ、父伍奢【ごしゃ】と兄伍尚【ごしょう】を殺されることになってしまった伍子胥は、隣国呉で再起を果たし、生まれ故郷である楚を滅亡の淵まで追い込みました。

伍子胥は史書の中では「員」あるいは「伍胥」と書かれています。おそらく「員」が名で「胥」は別命か字だったのでしょう。子という言葉は男子に対する敬称なので本名とは関係無いと思います。介推のことを介子推と呼ぶのと同じことでしょう。つまり伍子胥すなわち伍員は中国史上稀に見るほど民衆に愛されている英雄(ヒーロー)と言えます。大きくなったら伍子胥みたいになるんだ!と。それはそれでどうかと思いますが。

この頃の時代を書いた史家が「あの」司馬遷だったおかげで、伍子胥の苛烈振りは強烈なインパクトを持って記されています。もともと司馬遷という人物は人間の負の面に対してスポットを当て、人類が残してきた歴史の暗い側面を抉り出して露にするのが得意なのですが、同時に、人間としてこれ以上無いほどのすがすがしい生き様も描くことができる人でした。殷の王子、伯夷【はくい】と叔斉【しゅくせい】の話は中国史に詳しくない人でも聞いたことがあると思います。良いも悪いも、司馬遷の書いた史記には後世に語り継がれるような人物が多々登場します。伍子胥もその中の一人です。

話を戻しますが、伍子胥が生きていた頃の楚という国は、中央集権の独裁国家です。重耳が残した晋や太公望が興した斉のような文明国家が中世ヨーロッパのように貴族社会を迎える中、楚はなお君主制を保っていました。その君主の側にいたのが伍子胥の祖父である伍挙であり、言ってみれば伍家の子息である伍子胥は中央で政権を振るうにはふさわしい血筋の人間と言えます。

それだけ正当性のある人間が家族を殺され国を追われたのですから、仇に報いるために復讐鬼となるのは当時の世風から言ってとくに問題が無いことでした。死者に鞭打つ場面は「死ねば仏」の精神を持つ日本人にとっては眉をしかめるところでしょうが、やられたらやり返すという復讐の精神が浸透していた当時の中国においては、彼の行為は至極正当なことと受け止められていたようです。

今回はこの伍子胥の列伝(史記第68巻)にスポットを当て、ところどころ補足を交えながら翻訳していこうと思います。

伍子胥列伝

讒臣無忌

伍子胥とは、楚人【そひと】である。名は員。員の父は伍奢と言う。員の兄は伍尚と言う。その先祖は伍挙と言い、楚の荘王〔である旅〕に直諌【ちょっかん】した人物(*1)であった。〔伍子胥(の一家)も、〕その子孫として、楚の中でも有名であった。

楚の平王には太子がいた。名前は建と言う。〔平王は〕伍奢をその太傅(お守役)にし、費無忌【ひむき】を少傅にした。〔しかしながら〕無忌は建に対する忠誠心が無かった。〔そうとは知らない〕平王は、無忌に秦から太子の愛人探し(嫁探し?)をさせた。その娘はとても美しかった。

無忌は急いで帰り平王に報告した。「〔私が見つけた〕秦の娘は絶世の美女です。平王様、あなたはこの娘を娶りなされ。その上で太子には別の娘を探して与えればよいのです」と。平王はその通り、秦の娘を妻(おそらく側室?)にしてしまった。〔平王は〕彼女を非常に愛し、軫を生ませた。そして建には別の娘を与えた。

この一件で平王のご機嫌取りが成功したので、無忌は、太子を放ったらかして平王に仕えるようになった。〔こういった経緯があるので〕無忌は、〔もし仮に〕平王が崩御したら太子が即位後に自分を〔怨みに思って〕殺しはしないかと恐れ、平王に讒言した(※讒言…心証を悪くさせるためにあること無いことを言うこと)

建の母は蔡の人間である。平王から寵愛を受けていなかった(※ご無沙汰であったということ)。平王は〔無忌がつれて来た女のほうが気に入ったので〕建を疎ましく感じるようになった。建を城父に派遣して辺境の蛮族に当たらせた(※通常太子は首都にあって宗廟に祭るものなので、実質左遷+降格と考えて差し支えない。詳しくは陰陽〜晋世家〜を見よ)

これよりしばらくして、無忌は連日連夜太子の悪い点を平王にあげつらった。「太子は秦の娘の一件で怨みに思っているようでございます。お気をつけなされ。今太子は城父におりますが、兵を将い、外国の諸侯たちと交わっているようでございます。そして軍勢を上げてこちらに攻め入ってくるつもりでしょう。」

諌臣伍奢

平王は太子の太傅である伍奢を呼んで問い詰めた。伍奢はこの時、無忌が太子を悪く言っていることを知って次のように答えた。「王はかような讒言を好む臣下のために骨肉の親族を疎んじるのですか(*2)」と。無忌は言った。「王よ、今太子を制圧しなければ、この企み(※謀反)は成功してしまいますぞ。王は〔太子によって〕捕らえられてしまうでしょう」と。

平王はここにきて頭にきて、伍奢を牢屋に放り込み、城父の司馬(※軍隊の隊長)である奮揚【ふんよう】に、太子を殺させようとした。奮揚は自分が到達するよりも先に使者を派遣して太子に事の顛末を伝えた。太子はそれに従い、急いで〔城父を〕去った。もし去らなければ殺されていたであろう。建は宋に亡命した。

無忌は平王に言った。「伍奢の息子は二人います。共にずる賢く、彼らを殺さなければ楚の憂いになるでしょう。伍奢を人質にして彼らを呼び出すべきです。そうしなければ楚の災いとなるでしょう」と。平王は伍奢の元に派遣した使者に次のように言わせた。「お主の二子が来れば生きることができる。来なければ死ぬことになる」と。伍奢は言った。「尚は心やさしい男ですから呼べば来るでしょう。員は豪胆で恥を知る男ですから大事を為すことができます。〔したがって〕彼が私が捕えられている様を見れば自分も捕えられるに違いないと思うでしょうし、まず彼の性格からして来るはずがありません」と。

平王は〔伍奢の言うことには〕耳を向けず、使いのものを出して二人の息子を召し出そうとした。平王は〔使者を使って〕次のように言った。「来ればお前らの父親は生かす。来なければ殺す」と。〔それを聞いた〕伍尚は〔平王の元へ〕行こうとした。

伍員は言う。「王が吾らを呼ぶのは父上を生かすために呼ぶのではない。国外に逃げて再起を図るものがあることを恐れているだけだ。それゆえ父上を人質にして私達を騙して呼びつけるのである。もし吾らが行けば、親子ともども殺される。それでは〔これからおとずれる〕父上の死に何の意味があろう(*3)。平王のもとに行っても吾らが仇討ちをできなくさせるだけです。他国に出奔して助力を得、父の雪辱を果たすのです。このまま成り行きに任せて親子で死ぬのは無策でしょう」と。

伍尚は言う。「私も父上の命を救うことができないことは分かっている。だが父上が吾らを召して生きることを欲しているのだ。それなのに行かず、後に〔私にはその力が無いから〕復讐を果たすこともできないから、天下の笑いものになるだけであろう」と。その上で員に言った。「お前は生きろ。お前なら父上の無念を晴らすことができる。私はこれから人としての最期の場所(冥府)へ行ってくるから」と。(※「去」は本来あるべきところから去ること。「帰」は本来あるべきところに戻ること。伍尚は自分が殺されることを知っていたが、そこを死に場所と決めたので死にに行くことを決め、弟の員にはそこには来るなと言っている。)

伍尚を捕えた使者は伍員も捕えようとした。伍員は弓を持ち矢をつがえ、使者に立ち向かった。使者は伍子胥に向っていかなかった。伍子胥は国外に逃亡し、太子の建が宋にいることを知ると馳せ参じて仕えた。伍奢は伍子胥が逃げおおせたことを聞くと、次のように言った。「楚の国の人々は、上も下も苦しい目を味わうことになるだろう」と。伍尚が楚に到着した。楚〔すなわち平王〕は伍奢と伍尚を殺した。

亡命生活

平王と無忌によって国を追われた太子建にとって、同じ境遇の伍子胥は得がたい友であった。伍子胥と太子建ともに再起を図るため、各国を渡り歩く。しかし欲を出した建のあさはかな行動によって、伍子胥はさらに辛い状況に追い込まれてしまう。

伍胥が宋に到着したころ、宋では華氏の乱が起きた。そこで〔伍子胥は〕太子の建と共に鄭に出奔した。鄭の人々は〔二人を憐れみ〕非常に善く扱ってくれた。それから太子は晋に行った。

晋の頃公は〔太子に〕次のように言った。「太子はすでに鄭で丁重に扱われており、〔そのことからも分かる通り〕鄭の国民はあなたへ善い感情を持ち、信用している。太子よ、あなたが私のために〔国内にもぐりこんで〕内応し、わたしが外から攻め込めば、鄭を必ず滅ぼすことができる。〔わたしは〕鄭を滅ぼしてあなたをその主にするつもりだ」と。建は〔その誘いに乗って〕鄭に入った(*4)。

まだ計画が実行に移されていない頃、会という人物が自分の従者を殺そうとした。(※おそらく会は太子の配下であろう)その従者は〔太子と晋の〕謀略を知り、鄭〔の主〕に密告した。鄭の定公は子産とともに太子の建を誅殺した。

〔ところで〕建には息子がいる。名を勝と言う。伍胥は〔太子建が謀略に荷担して殺された事を知り、自分も殺されるのではないかと〕恐れた。そこで勝とともに呉に逃げた。(※呉は辺境の中の辺境。越を除けば最果ての地である)

昭関に着いたが、昭関の役人は彼らをとらえようとした。伍胥はここにきて勝と二人きりで逃げ出し、徒歩で逃げようとした。〔当然〕逃げ切れそうに無い。追跡者がすぐ後ろに迫ってきている。〔それでも二人は走り、〕ついに長江(あるいは揚子江)に至った。その川の上に一人の漁夫がおり、船に乗っていた。漁夫は伍胥に危機が迫っていることを知るや、伍胥を〔船に乗せて〕向こう岸に渡した。

伍胥は〔無事〕向こう岸に着いたので自分が持っていた剣を外して言った。「この剣は百金の価値があるものだ。貴方にお渡ししたい」と。その漁師は言った。「楚の国では『伍子胥を捕えた者は五万石の領地を与え、執圭の爵位もあたえる』とありますよ。百金の剣どころじゃありませんね」と。〔そして伍子胥が剣を与えても〕受け取ろうとしなかった。伍子胥はまだ呉に到着していない頃に病にかかってしまった。道中物乞いをした。

雌伏の時

〔伍子胥は〕呉についた。ちょうどそのとき呉王の僚【りょう】は軍事演習をしている最中であり、公子の光【こう】が〔その軍隊の〕指揮官であった。伍子胥は光づてに呉王に謁見を求めた(※公子…王の後継者ではない男子。/⇔太子)

それからしばらく経った。

楚の平王が治めている鍾離【しょうり】の領民と呉の卑梁【ひりょう】は共に養蚕業を営む部族であった。そして両者の女達が、互いに桑の領有権を争って喧嘩した(※おそらく国境に近い桑を争ったものと思われる)。この件で非常に怒った両国は、互いに軍を出した。呉は公子光に〔呉の軍勢を指揮するように命令し〕楚を打ち破らせた。〔光は〕楚の鍾離や居巣【きょそう】を落として帰ってきた。

伍子胥は呉王の僚に説得した。「楚を打ち破れます。どうか公子光〔に軍勢を率いらせ、軍団〕を楚におくって下さい」と。公子光は呉王に言った。「あの男すなわち伍胥は父と兄を楚に戮されています。だからあなたに楚を討たせようと言うのも、自分の報復(=復讐)のために過ぎません。現段階では楚を討つべき時が来ているとは思えません」と。

伍子胥は『公子光は国内のことに気が向いている。〔光は?〕今の呉王を殺して自分で即位するつもりである。だから外国のこと(=楚の国のこと)には関心が無いんだ』ということを知った。ここで専諸【せんしょ】を光に推薦し、自分は〔政界から身を〕退き、建の子である勝と一緒に畑仕事を始めた(*5)。

呉王闔閭

五年が過ぎ、楚の平王が崩御した。以前平王が横取りしたところの、〔本来であれば〕太子建の〔ものであった〕秦の娘は、軫という名の子を産んでいた。平王が崩御したことで軫はようやく即位し、後を継いだ。これが〔楚の〕昭王である。

呉王僚は楚の喪を狙って二人の公子に軍を率いさせて楚を攻撃させた。楚は軍を出して〔迂回し〕呉の軍団の後方〔つまり兵站線〕を絶った。呉軍は国に戻れなくなった。呉の本国は〔本隊が出てしまったので〕空である。そこで公子光は、ただちに専諸に僚を殺させ、自ら〔呉王として〕即位した。これが呉王闔閭【こうりょ】である。

闔閭はついに野望を成し遂げた。すぐに人を遣って伍子胥を召し出した。そして国事について協議した。

〔ところで〕楚では大臣であった郤宛【げきえん】と伯州犂【はくしゅうり】が殺されるという事件が起きた。伯州犂の孫の伯嚭は呉に亡命した。呉は彼を大夫とした。

〔さて、〕前の呉王であった僚が送り込んだ楚討伐軍を指揮していた二人の公子だが、彼らは道を絶たれたため帰国できないでいた。闔閭が王を弑逆して即位したことを聞くと、率いていた軍ともども楚に降伏した。楚は彼らを舒に封じた。

呉楚相伐

伍子胥と孫武という二頭の巨龍を得た呉は、史上稀に見るほどの軍事力を備えた大国へと発展する。軍事センスのある光とその息子、夫差。および天才軍略家として名高い孫武と伍子胥によって導かれた呉は、辺土の蛮国から強国へと生まれ変わった。

闔閭三年、〔呉は〕軍を起こした。伍子胥と伯嚭をつれて楚を討ち、舒を陥落させた。ここで楚に寝返った二人の将軍(※公子のこと)を捕えたので、〔闔閭は〕さらに〔楚の首都である〕郢【えい】まで軍を進めようと思った。〔呉の〕将軍であった孫武【そんぶ】は次のように言った。「民は疲れ、時期あらず。待つがよろしい」と。〔闔閭は〕軍を引き上げた。(※孫武…孫子の兵法で有名な天才軍略家)

闔閭四年、楚を攻撃し、六と灊【せん/しん】を奪い取った。

闔閭五年、越を攻撃し、これを打ち破った。

闔閭六年、楚の昭王は公子嚢瓦に兵を率いさせて呉を攻撃した。呉は伍子胥に迎撃させた。〔伍子胥は〕豫章【よしょう】にて楚軍を散々に打ち破り、楚の居巣を支配下に置いた。

闔閭九年、呉王闔閭は伍子胥と孫武に言った。「君はかつて『郢に入る時期に来ていない』と言っていたな。では今ならどうであるか」と。伍子胥と孫武は言った。「楚の将軍である嚢瓦は貪欲ですから唐・蔡の民は怨みに思っています。もし王が楚に勝ちたいとお思いであれば、まず先に唐と蔡を得て、はじめて「良い」と言えます」と。闔閭はこれを受け入れた。

呉王はすぐに軍を起こして楚と唐・蔡を攻撃した。〔そして〕楚と漢水【かんすい…黄河の支流。鄭と楚の間にある】を挟んで布陣した。呉王の弟の夫概【ふがい】は兵を率いて従軍したいと〔闔閭に〕お願いした。しかし闔閭は許可しない。そこで〔闔閭は?〕軍勢を上げて5000人の兵士と共に楚の将軍子常を攻撃し、子常は敗れて鄭の国に逃げ込んだ。ここにおいて呉は勝ちに乗じて軍を進め、戦うこと五回、ついに郢に至った。己卯の日、楚の昭王は出奔した。その翌日、呉王は郢に入った。

日暮途遠

呉は楚に勝利した。呉に亡命してから十四年、ついに伍子胥は祖国楚に戻ってきたのである。しかし復讐の対象であった憎き平王は、すでにこの世の人ではなかった。その息子である昭王も僅か一日の差で逃げられてしまった。途方にくれた伍子胥がとった行動とは……。

昭王は国外に出て、雲夢【うんぼう】に逃げ込んだ。賊徒どもが〔金銭目当てで〕昭王を攻撃したので、昭王は鄖【いん/うん】に逃げた。鄖の領主の弟が言った。「楚の平王は我らの父上を殺したのです。我らがあの男の子(=昭王)を殺したところで何の問題がありましょう」と。領主は弟が王を殺すことを恐れ、王と共に隋に出奔した。

呉の軍勢は隋を包囲し、隋の人々に聞こえるように言った。「周王室の流れを汲むもので漢水に住んでいるものは、全て楚によって殺されたのだぞ!」と。隋の人々は昭王を殺そうとした。昭王の子である綦【き】は王を匿い、自分が王の身代わりとなってこれに対応した。隋の人が呉に王を渡すことを占ったところ、「不吉」と出た。呉に謝って王を渡さなかった(*6)。

そのむかし、伍員は申包胥【しんほうしょ】と友誼を結んでいた。伍員が逃亡する時、申包胥に次のように言った。「俺は楚を滅ぼしてみせる」と。申包胥は言った。「私は楚を救ってみせる」と。呉軍が郢に入ると伍子胥は昭王を捜させた。しかし昭王はすでに逃げ去った後であった。そこで平王の墓をひっくり返し、死体を掘り出した。〔伍子胥は死体に〕鞭を300回入れ、そこでようやく手が止まった。

申包胥は山中で〔その話を聞き〕伍子胥に人を遣って伝えた。「君の仇討ちは普通ではない。私は『人は勢いが優れれば天に打ち勝つが、一度天がこれと決めれば人はこれを破ることは出来ない』と聞いている。君は〔仮にも〕亡き平王の臣下であった。親しく仕えておきながら、今になって死人を辱めた。これは天道に背くことの究極ではないか」と。

伍子胥は〔その使者に対して〕言った。「彼(=申包胥)に伝えてくれ。『もう日が暮れて〔手遅れになって〕しまったのに、まだ〔私の望む〕道は〔手の届かない〕先にある。だから私は人として進むべき道に逆行し、道を外したのだよ』とね」と。

不絶其声

〔伍子胥らが楚を打ち破ってしまったので〕申包胥は秦に走って急を告げ、秦に助けを求めた。秦(王?)はこれを許さない。申包胥は秦の宮廷の前で昼夜哭きつづけた。七昼七夜、その声は途絶えることが無かった。

秦の哀公は申包胥を憐れんで言った。「楚は無道だ。しかしこのような臣下がいる。〔楚をこのまま〕滅亡するに任せてはよくない。」そこで500乗もの大戦車軍団を出し、楚を救って呉を攻撃した。六月、呉を稷の地で打ち破った。

ちょうどそのころ、呉王闔閭は楚に逗留しており、楚の昭王を捜索していた。ところが、闔閭の弟の夫概が亡命先から帰国して勝手に呉で即位した。闔閭はこの知らせを聞いて楚を放って帰国し、自分の弟である夫概を攻撃した。夫概は敗北して楚に逃げた。楚の昭王は呉に内乱があることを見て〔首都である〕郢に戻り、夫概を堂谿【どうけい】の領主にして、堂谿殿と呼んだ。

楚はふたたび呉と開戦し、呉は敗北した。呉王(闔閭)は帰国した。それから二年後、闔閭は太子夫差に軍を率いて楚を攻撃させ、番【は】の地を奪った。楚は(前回のように)呉が大軍勢で押し寄せるのを恐れ、郢から逃げて鄀【じゃく】に入った。

呉はこのとき、伍子胥と孫武の智謀を得ており、西の方精強なる楚を破り、北は威を持って斉・晋を押さえ、南の越を従属させ(られるほどに強大な国家となっ)ていた。(※呉の東は海であるから、実質東西南北に敵無しの状態となったわけである)

その四年後、孔子が魯の大臣になった。

諌臣子胥

伍子胥と孫子という双龍を得て南国の覇者となった闔閭であったが、思わぬ伏兵によってその生涯を閉じる。前主の覚えがめでたい老臣がたどる道筋は何時の世も似通っているが、伍子胥もその悪しき習慣から逃れることは出来なかった。呉王不聴。夫差と伍子胥、両者の間に生まれたのは信頼感ではなく・・・。

(呉が大国楚を下した)その後五年、呉王闔閭は南国の越を攻撃した。越王句践【こうせん】はこれを迎え撃ち、姑蘇【こそ】という地において呉軍を打ち破った。闔閭は指に傷を負ったので撤退した。

闔閭はその傷がもとで病になり、危篤状態にあった。そして太子であった夫差【ふさ】を呼び寄せていった。「お前は句践がお前の父親を殺したことを忘れるか」。夫差は答えた。「忘れるはずがありません」。その夕方、闔閭は世を去った。〔そして息子の夫差が呉王となる〕

夫差が即位して呉の王となると、伯嚭【はくひ】をもって太宰に任命し、射的による戦闘の訓練を行わせた。

その二年後、越を攻撃して夫湫の地で破った。越王句践は残存兵をあつめて会稽で集結し、大夫の種【しょう】に命じて巨額の賄賂を伯嚭に贈らせて講和を望み、越をあげて呉の臣下になりたいと申し出た。(賄賂を渡された伯嚭が夫差に口ぞえしたものと思われる)

呉王(すなわち夫差)はこの条件を飲もうとした。すると伍子胥は諌めて言った。「越王の人柄ですが、彼は艱難辛苦に良く堪える人物です。今このときに彼の王を殺さなくては、必ず後で悔やむことになるでしょう」。

呉王は無視した。〔夫差は〕伯嚭のはかりごと(実際は越から持ち込んだはかりごと)を採用し、越と和平した(*7)。

それから五年、斉の恵公が無くなり大臣達が寵を争い幼君が惰弱であることを知った夫差は、北の国斉を攻撃しようと考えた。

伍子胥は諫めて言った。「句践は食事は二つと重ねず(※贅沢をしていないということ)無くなった者の弔問や、病人の見舞いなどをして、かつそれがいずれは自分のためになると考えているような男です。この男を生かしておいては必ず呉の憂いとなりましょう。いま、呉にとって越が存命であると言うことは、人でいう腹の奥底に病巣を残しているようなものです。しかも王は(夫差のこと)その越を放っておいて先に斉を攻撃しようとなさる。これで間違いが起きないはずがありません」。

呉王は無視した。〔夫差は〕斉討伐軍を組織し、斉の軍隊を艾陵【がいりょう】の地において大いに打ち破り、鄒【すう】と魯【ろ】の国を恐れさせてから帰国した。

〔夫差は〕ますます伍子胥の言うことを疎んじた。

それから四年後、夫差はついに斉討伐の軍をあげた。越王句践は子貢【しこう】の計略を用いて自分の軍隊を動員して呉軍に協力した。そして莫大な賄賂を持参して太宰伯嚭に献上した。太宰嚭はもうこの時点において度重なる賄賂を越から貰い受けていたので、越を信用することは一方ならぬものがあった。日夜、越の有利になるような発言をしていた。夫差はそれを信用した。

伍子胥は諫めて言った。「いいですか、越は体の奥底にある病巣なのです。いま王はやつらのうわべだけの言葉を信じて斉に手を伸ばそうとしています。仮に斉を下したとしましょう。しかしそれはたとえば〔穀物のならない〕石の田を手に入れるようなものであり、手の施しようがありません。(まったくもって無益です。)また、盤庚の中でもこのように記されています。『不恭のものがあれば鼻を削いでから滅亡させ、遺児も残すことなく殺さなくてはならない。そうすれば災いの種がこの町に訪れることは無い』と。(※災いを生むものは確実に抹消しつくせということであり、この場合は越という血統を完全に死滅させるべきだと言っている)〔思い起こしてください、〕これ(※災いの種を残したこと)こそが商(※殷のこと)が滅んだ原因ですよ。お願いです王様、斉をほうっておき越を先に滅ぼしてください。もしそのようにしなければ、後にこれを悔いることになったとしても、もう手遅れというものです。」」

しかしながら、呉王は無視した。〔そればかりか〕伍子胥を斉に派遣し〔て会戦を伝えさせ〕た。

伍子胥は出発に先立って息子に言った。「わしは幾度となく王を諌めたが、王は用いようとしない。わしは呉が今まさに滅亡する様子を見ている。おぬしが呉とともに心中するとしても無駄であろう」と。そして息子を斉の鮑牧【ほうぼく】に預けてそれから帰国し、呉王に報告した。

讒臣伯嚭

もともと伯嚭は伍子胥と仲がよくなかったので、これ幸いと讒言した。「伍子胥はその人柄は横暴で恩を恩と感じず恨み妬みの多い男です。彼が怨みを覚えれば、大きな禍となることをわたしは恐れます。先日王が斉を討伐しようとなさったおりに、伍子胥めはダメだと言いましたな。しかし王はついに斉を打ち破り、大功を成し遂げました。伍子胥のやつは自分の謀が用いられなかったことを恥辱に感じ、そのせいで怨みに思っておるのです。そしてまた王が斉を討伐しようとするので伍子胥はひねくれ者ですから強く諌め、王が大事を成すことを止めようとするのです。ただいたずらに呉が負けて帰ることで自分の考えの方が正しかったとなることを願っているだけです。いま王が自らご征旅あそばし、国中の力を合わせて斉を討つ。しかしながら伍子胥は諫めて採用されない。そのせいで仕事を離れて暇を請い、仮病を使って従軍を拒否しております。王様、備えを怠ってはなりませんぞ。これはよからぬことを企てておることに相違ありません。さらに私が人をやってひそかに調べましたところ、伍子胥が斉に使いに出たおりに、自分の息子を斉の鮑家に預けていったそうです。人の臣下として国内では意見が用いられず、国外では有力者に頼るとは・・・わたしが思うに前王闔閭様の参謀は今になって重用されなくなったのでもんもんとしており、〔自分の境遇やあなた様を〕恨みに思っているのではないでしょうか。お願いです、王。早くこれを片付けてください。」

呉王は言う。「あなたの話が無かったとしても、わしもまたあの者を疑っておりました。」そして使者を派遣して伍子胥に宝剣を下賜させて言った。「そなたはこの剣で死ぬのだよ」と。

伍子胥は天を仰いで嘆息していった。「ああ、讒臣伯嚭めが下らぬことを企みおるわ。王は逆にわしを殺そうとする。わしは貴様の父親を覇者にしてやったのだぞ。お前がまだ立って歩くこともままならなかった頃、他のライバル公子どもは次期国王の座を奪うために争っていたのだ。わしは命がけで先王(闔閭)のために奔走し、もう少しのところで〔お前の〕即位もかなわぬようなものであったのだぞ。お前は即位することができたとなると呉国の一部をわしによこそうとしたが、わしはそれを望まなかった。しかるに今、おぬしは媚びへつらうつまらぬ臣下のたわごとを聴いて、わしのような人生のベテランを殺そうと考える。」

そして〔伍子胥は〕自分の手伝いに告げて言った。「必ず、わしの墓の上に植える木は梓の木にせよ。これを〔あの男の〕葬儀につかう棺にするためだ。そしてわしの眼をくりぬいて呉の東門の上に乗せよ。越の野蛮人どもが呉に侵入してこの国を滅ぼす様を見届けてやる。」と。そして〔与えられた剣をつかって?〕自刎して果てた。

呉王はこれを聞いて大層怒り、すぐに伍子胥の墓を暴いて死体を取り出し、頑丈な皮の中に詰め込んで揚子江の中に放り込んでしまった。呉の人々は伍子胥を憐れに思い、伍子胥のために祠を揚子江岸辺にたてて、そして胥山と名づけた。

あとがき

このようにして伍子胥の苛烈な人生は幕を閉じました。前掲『死者に鞭打つ』と内容が異なる部分がいくつかあることに気付いた方も多いでしょうが、今回はあくまで史記伍子胥列伝の中にある情報だけをもとにしていますので、女兵西施も登場しなければ、有名な臥薪嘗胆のエピソードもありません。もともとこの時代をテーマにした歴史書は史記以外にもいくつかあり、西施や臥薪嘗胆はオリジナルの史記の中には登場しないのです。

さて、これから後日談になりますが、伯嚭の助言どおり邪魔者であった伍子胥を消した呉王夫差は、意気揚々と北の大国斉討伐の軍を上げます。ちょうど斉国内で鮑家のクーデターが起きたので夫差は鮑家を攻撃したのですが、芳しい功績を立てるでもなく帰国します。もっともこの時点では伍子胥の言うような事態(越王の攻撃など)は何一つ発生せず、夫差も少し安心したことでしょう。やはり年寄りの妄言だったかと。

我が世の春を謳歌する夫差はその二年後、再度大きな出兵をします。本国をあけ精兵を繰り出し大軍を出動させました。これはある意味では大成功と呼ばれるくらいのもので、呉王夫差は北の国々を破り、文字通り天下の覇者と言っても差し支えないような成果を出します。夫差は「覇」を成功させました。あの周王室すら傘下に加わったのです。悲劇はその直後に起きました。

夫差不在の呉を、越王句践が襲撃します。太子は殺され駐屯部隊は壊滅。呉も占拠されました。このときの様子は伍子胥列伝よりも史記巻41の越王句践世家に詳しいです。完璧としか言いようが無い本国急襲。呉は出撃した夫差隊を除いて完全に撃破されました。駐屯部隊のほとんどが前線に立てないような人間ばかりだったということで、越は勝つべくして勝ったのです。

呉、すなわち夫差は、急ぎ帰国して金銀財宝を山のように積み上げ、越と和平しました。しかし時の流れはもう越に向かっており、その9年後に越が侵攻してきたとき、呉は成すすべなく敗北します。夫差と伯嚭は越に殺されました。これを伍子胥の怨恨と解釈するかどうかは人それぞれでしょうが、結果として伍子胥に敵対したものは全て非業の最期を遂げたという結果だけが残ります。その点だけをとっていえば、伯嚭の言うことはあながち間違いではなかったのかもしれません。

そして呉にかわって越が中国、特に南方の支配者となりますが、その後越も力を回復させた楚によって滅ぼされます。

こうして大国楚、辺境の呉越という構図に戻るわけですが、たった一人の楚人伍子胥の存在によって楚・呉・越の力関係が大きく揺れ動いたことは後世の歴史家にも少なからず感動を与えたようで、彼自身の圧倒的な存在感も手伝ってか、伍子胥は各地で人気のある人物として挙げられています。

われわれが魏呉蜀三国時代という限定的な短い期間において活躍した人物に思いをはせる以上に、本場中国では伍子胥という人物が英雄視されているという話もあります。だからどうというわけでは無いんですが、地獄の奥底から自力で這い上がってきたかのような復讐鬼には、筆者自身も得も言われぬ感情を持ってしまいます。自分とすこし似ているのではないかと最近思い出しましたが、あまりそういうことを言うと変な誤解を生むのでほどほどにしておきましょう。

ところで伍子胥というのは本名ではありません。伍子胥は姓を伍【ご】、名は員【いん/うん】、字は胥【しょ】と記されています。姓とあざなの前にある子【し】というのは男子の最高敬称で、この子という言葉が当たり前に記されている人物というのは、当時あるいは後世において多大な支持を得ている人物のみに限定されます。ある程度時代が過ぎると字の前に子をいれることが認められるようになりますが(趙子龍あたりも有名でしょうか)、以前にもお話したとおり伍子胥は中国国内ではちょっとした英雄とされているんですね。

ほぼ裸一貫で楚の公子と一緒に楚を飛び出し、幾年の時を経て超大国楚を壊滅寸前まで叩き落した人物。死ねば仏の精神を持つ日本人から見ると奇行といえる『死者に鞭打つ』のワンシーンも、生に対する認識の異なる人から見れば、拍手喝采の名場面と言えるのかも知れません。とはいえやはり人道からそれていることは司馬遷も認識していたようで、伍子胥の親友である申包胥は「君の行動は非道だ」と人づてに言っています。

演劇ものではあまりのつらさに髪の毛が真っ白になるという精神ダメージを受けつつそれでも順当に復讐の手はずと整えていた伍子胥。しかし彼の思いは報われず、結果として復讐の対象平王は世を去り、後継者も一日というニアミスで取り逃がした挙句「占いで不吉と出たから」という理由でその手を離れました。彼のやりきれない思いは「やりきれない」という簡単な言葉では済まされないものであったでしょう。

日暮れて道遠し。人生という長い長い一日がもう終わろうとしているのに、目指す道はまだまだ遠く先にある。そのとき彼の心を通り抜けていった失望感、絶望感はいかほどだったでしょうか。

彼が聴衆の心をとらえてやまない原因の一つに、どんなに強く願ってもかなわないものが世の中にはあるという幸運の女神から愛されない人々に共通する絶望感の共有というものがあると思います。だいたい中国に限らず民衆(被支配層)ウケする講談というのは、やはり悲劇のヒーローが多いんですね。それはとりもなおさずそのような「悲劇」の中にいると感じていた人々が多かったことをあらわしています。演劇の中で殷の王様を昏君(フンチュン・・・くだらない君主という意味)と呼ぶのも、その時代を生きる人々が間接的に今の支配者に文句を言っているのと同じで、伍子胥の生き様に一種の寂寥感を覚えながら「自分の身も楽ではないなぁ」と思っていた人々が多かったのでしょう。中国は富の集中が古来から行われていましたから、上流階級と貧困層の壁はかなり高かったものと思われます。

さらにもう一つ、伍子胥が最後の最後まで諌臣伍挙の子孫として、主に正しい(と思われる)道を示し続けていた勇気にも、彼が愛される原因があるのではないかと思います。

彼の祖父伍挙【ごきょ】は、列強に囲まれた弱小勢力の中で凡愚を装ってつまらない臣下の一掃を行った荘王【そうおう】に仕えました。荘王が稀代の名君であったことから、伍挙の命がけの諌言は功を奏します。伍挙の比喩を用いた巧みな諌言に荘王は「すべて分かっておる」と答えたということです。そのあたりの問答は史書に詳しいので是非ご一読を。

その息子伍奢【ごしゃ】も同様楚の平王に諌言を行いましたが、荘王とは違う暗君であった平王は伍奢を殺してしまいます。そして国外に逃亡した伍子胥はそこで得た主の息子夫差が道を踏み外そうとすると諌言をしました。夫差が伍子胥の言葉に耳を傾けず命を奪ったのは前述の通りです。伍子胥も伍奢も伍挙のように命を顧みずに主を正道に立ち戻らせようと戦ったのです。伍挙は名君に出会えましたが、伍挙と伍子胥はそうではなかった。理解の無い上司に出会ってしまった不運というのも、伍子胥が伍胥ではなく伍子胥と呼ばれる原因の一つではないかと思います。

結果論として、伍子胥を用いた闔閭が呉を伸ばして用いなかった夫差が呉を滅ぼした点から見ても、伍子胥は良い主に巡りあえなかった不幸だったと思えてしまいます。もっとも夫差から見れば「ただ復讐のために楚から流れ着いた老人」ごときに敬意を払えと言われても無理だったことでしょうが。

巻末補足

*1 直諌の臣、伍挙

時の楚王旅が王位についてからというもの三年、楚王は内外の政治をおろそかにし宴食に耽り、それを諌めた人間を次々と殺していきました。さらに「これより先、私に意見を言うものは問答無用で殺すからそのように」と宣告。宮中は震え上がり、楚王の行いを止める者はいなくなります。

そこに真正面から立ちむかったのが伍挙です。伍挙は例え話を用いて楚王を諌め、楚王の暴政を止めようとします。これは後世語り草になるほどの見事な問答で、楚王と伍挙が史上稀に見る名君と賢臣であったことが分かる内容となっています。実は楚王の振る舞いは全て計算されたものであり、内部のつまらない人間を一斉に排除するための擬態でした。

後、暴君の仮面を脱ぎ去った楚王は清廉な臣下を一斉に採用しましたが、伍挙は楚の中でも最高級の扱いを受けていたものと思われます。

*2 なぞかけでは無いものの

ここで言う臣下は費無忌を、親族は太子を指しています。比喩でもって主の誤りを正そうとする忠諌伍挙の末裔らしい発言ですが、残念ながら楚の平王は、旅のように明君ではありませんでした。平王が美女を献じた無忌に対して肩入れしていたということもあったのかもしれません。

*3 父の死が前提になっている

「平王はすでに伍奢を殺すことを決めており、兄弟が来ても来なくてもそれは変わらない。ただ同じ殺すなら後顧の憂いを断つために二子を呼びつけてまとめて殺すほうが良いと判断したので伍奢の殺害を先送りにしているだけだ」というのが伍子胥の見解です。それゆえ「父親の死に益が無い」というのは「伍奢の命に価値が無い」という意味ではなく、「自分たちが犬死すれば(決定事項であり回避できない)伍奢の死が無駄になってしまう」という意味になります。

*4 鄭の温情にこたえられなかった建

地理的な説明も加えておきますが、鄭は大国楚と晋からみて距離的には中間にある小さな独立国家であり、国力は非常に少ないものの、黄水の上にある要所です。春秋時代は黄河を中心に文化が発展しており、鄭もその中でも非常に重要な位置にいました。そのため晋と楚のいさかいが起きると真っ先に狙われるのが鄭であり、鄭は楚にも晋にも尻尾を振らなければ国が保てないほどの苦しい歴史を積み重ねてきています。

その中で楚から流れてきた両者を手厚くもてなした鄭の国民はある意味では良心的であり、穿った見方をすれば打算的と言えるかもしれません。しかし楚に返り咲くことができるかできないかも分からないような二人に手を差し伸べてくれた鄭人の恩に大して仇で報いようとした建は、自身の情の無さによって身を滅ぼすことになります。この時代は恩には恩で返し仇には仇で返すのが当然なので、楚に対しては仇で、鄭に対しては恩で返すのが建の取るべき態度であったと言えるでしょう。

*5 野心家であればこそ畑を耕す

貴族や王族といった支配階級にある人間は通常は野良仕事などの領民がとるべき生産活動に従事しません。宮中や邸内で謀り事をしたり、あるいは人脈を広げたり名声を高めたりします。したがって領民と同じような生産活動を取ることを「野に下る」と言い、これはいわゆるお上の世界(上流階級)との交わりを断つことに繋がります。

したがって畑を耕すという伍子胥の行為は、楚討伐の兵を上げない呉王と、公子光に対する非難の意思表示(行為)とも取れるのです。普通、自分の望みが叶えられそうにないと諦めた人は他国に走ります。諦めないからこそ百姓としてその地に残るのです。

*6 人の世を定むるは天意なり

「占いで不吉と出たから渡しません」。現代人が聞くと「何をバカな」と思うことでしょう。しかし当時では、人生というのは神様が作ったレールの上を走るということが当然視されており、軍を起こすにも人を殺すにも当事者の意志などは挟まないという約束がありました。人は天により生かされ、また天によって戮される。呉は昭王を殺すつもりだったのでしょうが、伍子胥にとっては真に不本意な結果となったに違いありません。

*7 老臣の苦言

前主から位を譲られた若い指導者というものは往々にして、自分の就任前から宮中にいる人物にたいして何らかの悪感情を抱くことがあります。そこまでいかなくても自分が抜擢したわけでもない古参や老臣の言葉を疎んじるというのはいつの世も同じで、夫差もその例にもれず自分が抜擢した伯嚭を、功臣である伍子胥よりも寵愛しました。

優れた智謀の持ち主から指摘を受けた場合、たとえそれが自分の意に沿わなくても受け入れるというのは指導者に必要な器なのですが、夫差と伍子胥は斉の桓公と管仲のような理想的な君臣関係を築くことはできなかったようで、結果としてそれは両者の掌から幸福の果実をもぎ取ってしまいます。

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