思而不学

最終更新
2005年 5月23日

はじめに

思而不学というタイトルには、特に意味も関連もありません。もともと“思而不学”とは、〔「あれこれ頭のなかで考えるだけで、書物から学ぼうとしない。それは危険なことだよ」という意味らしい〕(※参照)んですが、単にコラムの題名が思いつかなかったので、じゃぁこっちも思而不学でいいだろうと。

このページでは色々な本なり参考書なりを見ながら管理人が思ったことをつらつらと書いていきます。中国史研究コンテンツの各ページは、それぞれ「テーマ」を決めてから書き上げているんですが、その「テーマが決まらないもの」や「ひとくくりにするのが難しいもの」が結構な量になってきたので少しずつ吐き出していこうと。

そういうわけなんで、気楽に。

治世者と法の関係

法の必然性

人は社会的な生き物です。人が集まると社会が形成され、ひいては国となります。理由は簡単で、一人一人が自給自足で何から何まで用意するよりも、ある程度の規模の集団でみんなで暮らしたほうが安全かつ効率的だからです。

皆で生きていくために形成された社会ですから、当然その目的に反した行為は認めないという約束事が決められます。たとえば「田畑は荒らすな」とか「人のものは盗るな」とかですね。この「生きていくためのルール」は古今東西あちこちで見られます。数千年前のヨーロッパにもそういった約束事(法)を決めたという資料が残っていますし、もちろん現代社会においても当たり前のように存在しています。

ある程度文明レベルが上がってしまうと「生きていくため」以外の目的で作られるルールもあります。たとえば「牛は食べてはいけない」とか「遺跡を壊してはいけない」など。生きていくためにはむしろ牛を食べたほうが体には良いですし、必要とあれば住居スペース確保のために遺跡を壊す必要も出てきます。それにもかかわらず、あるいは宗教上の理由から、あるいは学術的な理由から「決まり事」が作られることがあります。決まり事が決められるにはそれなりの理由があるからで、それが正当なものと認められれば、より力をもったものとなります。

リーダーは法に遵うのか

人があつまると社会になると言いました。社会ができるとそれをまとめる人が必要となってきます。ここでは治世者とひっくるめて総称することにしますが、彼らはその集団のリーダー(導き手)であるとともに法の担い手、あるいは法の支配下に置かれる必要が出てきます。

もっとも、時代によっては「そんな面倒なことやってられるか」ということで「国のトップ(あるいは上層階級)は裁かれない」という特殊ルールを決めている時代もあります。飴と鞭があるなら飴だけ欲しいというのが人情でしょうし、甘い蜜が吸えるなら一人で吸っていたいと思うのも分かります。自分だけがいい目を見たいなら、苛酷な税と厳しい法と、特権です。独裁国家にありがちなパターンですね。

とはいえそれではやはり無理が生じます。本来同レベルにあるはずの「人」が「人の上」に立つにはなんらかの理由が必要なわけですが(邪馬台国であれば呪術、中世ヨーロッパでは王権神授、現代であれば国民の支持など…)、そういったものが無い場合でも人を法の下に拘束することは可能です。しかしそのためにはリーダー自身が法を遵守する必要が出てきます。要するに「俺もやるからお前らもやれ」と。この時にある程度以上の説得力があれば、従ってくれるはずです。集団のトップは掟に従わなければならないのです。

曹操と馬の話

曹操。字を孟徳と言いますが、彼は一度自分で決めた約束事を破ったことがあります。

若い頃からそういったことにはうるさかった曹操さんですが、いつぞやの行軍中に「田畑を乱す無かれ。乱せば打ち首」と布告した直後に(彼の乗っていた)愛馬が暴走して田畑を荒らしてしまうという事件を起こしてしまいました。自分で決めたルールを自分で破ったわけですね。これは気まずい。

中世ヨーロッパの王であれば「いやいやあれは馬が勝手に暴走しただけだから無問題」と言ったかも知れませんが(ナポレオンだったらどういう対応をするのか興味があります)、曹操は「言った自分が裁かれなければ部下に示しがつかない」ということで罰を受けたいと申し出ました。この時代は刑罰典が特に成文化されているわけではないので、罰を決める人間が同行することになっています。曹操は彼に「私の罰はどのようになるか。従うから教えてくれ」と聞きました。

当然、聞かれた方は困ります。曹操は集団のリーダーですが、「最高責任者は裁けない」というルールが浸透している2世紀の中国においては曹操を裁きようがないのです。従って罪はあっても刑罰を決めることはできません。それならと曹操は自分の髭をばっさり切ってしまいました。

この当時、髭が無い人間は「女性的である」とか「宦官のようだ」というように馬鹿にされるのが常ですから、髭を切るというのは大変な恥辱と言えます。「刑罰適応なし」と「死刑」の間をとった形になりますが、集団のリーダであっても法の制約からは逃れられないということをしっかり認識し、かつ実践しているという点で、曹操は非常に近代的な法的思考能力を有していたことになると思います。ほぼ裸一貫で王の位まで登りつめた男のセンスは常人の一歩上をいっていたのでしょう。

集団の中における個人

そういった国とか集団における個人の役割についてシビアな人が他にもいます。

趙雲。字を子龍と言いますが、彼は三国志の世界でも異色を放っている人間です。特に戦闘が上手かったとか武勲を立てたという話は聞かないのですが、社会という枠組みの中における個々人の役割といったものに非常に敏感で、かつ頭の良い政治的なセンスのある人だったように思います。

趙雲が三国志の中で目立った動きをするのは計5回。一つは劉備軍が曹操軍の猛攻を受けつつ長坂から逃げる時に世継ぎの阿斗(劉禅)らを守って南下した時。一つは趙範の兄嫁との縁談を断った時。一つは夏侯蘭の助命を嘆願した時。一つは関羽の報復戦に臨もうとした劉備を諌めた時。一つは曹真の大軍を防ぎつつ逃げきった時。

あちこちで言っていますが、この当時に限らず、国家だとか社会だとかの大きな枠組みで物事を客観的に判断できる人間というのは少ないといえます。おそらくある程度以上の学問を学んでいなければ分かりにくいものなのでしょう。この時代の人間がそれほど裕福であったということを裏付ける資料もありませんから、文字が読めない人も数多くいたと思います。

私事よりも国事を

そんな中で、趙雲は武官肌でありながら、その手の思考能力は大変優れていた人物のように思います。長坂と対曹真戦における撤退劇は彼の指揮能力の高さを物語っていますが、趙範の兄嫁との縁談を断った時を見ても、夏侯蘭の助命が受け入れられた後の処置を見ても、殿軍を努めた後の諸葛亮とのやり取りを見ても、その根底には「集団としてどうあるのがもっとも良いか」を常に意識しているように思います。

たとえ絶世であっても国家のことを考えれば火種を持たないためにも美女は不要。たとえ親友であっても国のために役立つと思って助命を嘆願したのであるから私的に接触しない。たとえ大功であっても来るべき冬支度のために使える物資を褒美として受けとるくらいなら倉庫にいれるべきだ。個人の欲求を満たすには美女も友も褒美も必要でしょうが、趙雲はそれよりも国事を優先しました。

国事を優先するという点で益州平定後の施策方針時に新たに得た畑や建物は全て土民に返還すべきであると説いた人物がいましたが、発言者を見るとやはり趙雲です。彼は古の名将霍去病が対匈奴戦で乱を平定するまでは家屋敷をつくろうとしなかった故事を挙げ、諸将への論功勲章を差し止めようしたのです。命がけで戦った諸将は不満だったでしょうが、劉備は趙雲の意見を採用して田畑を土民に返還しました。所詮は盗賊まがいの劉備軍ですから、こういった慰撫政策は後の統治に大きく影響したと思います。

こういった「木を見て森も見る」類の人間は集団における個人の役割を大きな流れの中で見ることができるという点で、人材としては非常に貴重なものだと思います。少なくとも目先の利益につられてほいほいと主を変えるような節操無しとは段違いです。集団を集団として客観的に判断できる能力。趙雲は統治者の側にはいませんでしたが、ある程度以上の責任のある身分にいました。人の上に立つ人間にはこういった戦略的な視野を持つことが求められるのでしょう。もっともこれは現代社会においても言えることですが。

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