晋世家 下

最終更新
2005年12月09日

解題

前掲、史記晋世家(上)においては晋の国が生まれてから春秋五覇の一人である重耳が王座に返り咲くまでを見てきました。その中では史記に通ずる人の世を定める非情な天の意思を見ることができたと思います。善人が馬鹿を見ることもあるし、悪人が大往生することもある。そういう世の不合理を静かに書き記す司馬遷の筆は、人が人として生きていく上で避けようが無い現実を冷静に記します。

重耳が入国した時点でもって、晋世家はいったん筆を止めます。そこで、小説で言う回想シーン(あるいは解説シーンと言いましょうか)が挿入され、晋の文公【ぶんこう】こと重耳がどういう人物であったかを、彼の随臣との19年にも及ぶ放浪生活とともに語り始めます。それまで晋という国について話を進めていたのに、突如個人にスポットを当てるんですね。晋世家の中の重耳伝と見ても良いかもしれません。

史記のテーマとして絶対者・天が存在することは疑いようが無いのですが、これは我々日本人の言うお天道様とはちょっと様子が違います。日本人の感覚で言えば因果応報・勧善懲悪が当然でしょうが、中国においてはこれが必ずしも真ではありません。どれだけ頑張っても天が滅ぼそうとすればそれまでというのは凱歌の項羽【こうう】の一件でも明らかでしょう。人は天の意思から逃れられないのです。

では世の人は人生はすべて天次第ということで生きる努力を諦めていたのかというと、もちろんそうではありません。伍子胥【ごししょ】列伝の中で申包胥【しんぼうしょ】が「人は天に打ち勝つことができる」点について言及していますが、これにより天は絶対だが、絶対ではないことが導かれます。なにやら哲学的な話になってしまって難しいですが、絶対ではない絶対者という矛盾を内包した存在が当時すでに認められていたんですね。

私個人の意見としては、宗教上においても歴史上においても、人間以上の存在である神や仏は存在しないと思っています(無神論者)。宗教においては神を信じるのが本髄ではなく、そのように神を信じること、自分の精神の中に神を宿すことで自身を規律すること、それこそが真なのだと考えます。「神はどこにいますか」の問いかけに「汝の中に」と答えるのは、そういった意味合いもあるのではないでしょうか。

現代社会でも、科学で証明できないことは霊の仕業だとか超科学だとかいう言葉で、我々の意識よりも上に存在する超人的な意思を肯定することがあります。何かあれば「これは宇宙人の仕業に違いない!」と騒ぐ人たちも、まぁもとは同じようなことでしょう。そして古代中国においてはそれがすなわち天だったということです。

従いまして、中国史研究においては超人的な意思を持った天の存在を肯定した上で話を進める必要があると考えます。そういった超人的な意思を肯定した環境の中で彼らは考え、行動しているからです。よく迷信を信じるから昔の人は馬鹿だとか話にならないという人がいますが、これはちょっと違うと思うんですね。当時の人にとっては迷信も各々の選択における重要なファクターであったわけで、これを排除して「あの時のあの人の行動はおかしい」と決め付けてかかるのは乱暴でしょう。

相手の立場になって考えなさいと言うことがあります。自分本位に考えずに相手と同じ情報・同じ環境・同じ場面に立った場合にその人に降りかかったものに対してどういう心象を抱くか・どういう風に理解するか・どういった行動を取るかを、自分のフィルターではなく他人のフィルターで見ることで他者を理解しようとする試みです。論理学ではこれを想像力〔イマジネーション/英:Imagination】と呼びます。本来同一ではない甲および乙を同一にするという仮想行為です。

このとき甲乙をどこまで同一化させるかにもよりますが、私は純客観的な判断を下すつもりであれば、性格から環境から生い立ちまで何から何まで完全に同一化させてしまう必要があると思います。少しでも自分が残っている場合は主観面を含んだ考えに過ぎず、たとえばタバコが嫌いな私(甲)が歩きタバコを非としたとしても、歩きタバコをする人(乙)の理解は得られないでしょう。しかし乙が甲と一体化すれば乙は甲として歩きタバコを認めない判断を下すでしょう。逆もまたしかりです。

ひとつ例題を出しましょう。戦国時代を駆け抜け瞬く間に天下を統一した秦の英雄である始皇帝の話です。彼は死を恐れるあまり晩年は占い師を重用しました。徐福という人物に大量の金銭を与えて不老不死の秘薬を探させたのもこの頃です。

誰からも理解されない孤高の人である始皇帝は心を病み、死の恐怖から逃れようと様々なことを行いました。次々と迷信にはまっていく始皇帝は占い師の発言を受けては遷都をし、あちらで吉兆が出たと聞けば大勢で参り、こちらで凶兆が出たと聞けば急いで蓋をする。鯨猟に出たときには精神に失調をきたし、満面に広がる赤い血にまみれた海を見るという幻覚症状まで現れる始末です。始皇帝の晩年は迫りくる死の恐怖との戦いでした。無論死なない人はいませんから始皇帝は死神との戦いに負けて世を去りますが、ここでこの始皇帝の晩年の行いが彼の評価を下げるかどうかが問題です。

超人的な意思がいるという前提で、さらに死の恐怖から逃れられる不老不死の秘薬があるかもしれないという条件化において、国のトップが国力を傾けて自分の余命をつなごうとした行為。多くの学者はこの行為をおろかな行為と考えるようですが、私は人としてあるべき姿とまでは言えないにしても、あっておかしくない当然の形であると言えると思います。

自分ならそうしないよ、というのは主観的な意見です。客観的に見て、始皇帝に与えられた環境の中で彼が行った行為は十分理解できる行為であり、延命行為に没頭した点だけをもって彼の評価を下げるのは難しいでしょう。あえて非難するとすれば、迷信の輪の中に入ってしまった行為自体を論じるべきです。迷信に囲まれた部屋の中で下した決断が国力を衰退させるほどのものであったとしても、その部屋の中から下したものである以上は、これを非難の対象とするのはアンフェアです。

繰り返しますが、彼の晩年の行動を非難したいのであればそのような部屋の中に入ってしまったこと自体を非難するべきなのです。部屋の中に入っていった始皇帝を部屋の外から見て、それ以降の行動にケチをつけるのは、まさしく想像力の欠如にほかなりません。その部屋の中に入った人間が下す決断の是非は、部屋の中から下すべきでしょう。状況と環境を変更してもしもを介在させる観測法は、そのまま神の視点に結びつきます。我々が神ならぬ人のみである以上、歴史を考察するときは同じ土俵で考えるべきなのです。多くの学者は知らず知らずのうちに神の視点に近づいて、非現実的な空論を展開していることに気づく必要があります。

彼、始皇帝の行動が人間の行動原理にかなっているのは、同じく古代の支配者と呼ばれる人間が歴史上次々と迷信の世界に足を踏み込み、そしてその多くが帰ってこなかったことから見てもわかります。中世以降の社会が死の恐怖から逃れるために迷信を妄信することを否定するのは、死がもはや人の手によっては逃れようが無いものであることが知識として得られているからに過ぎません。もうこの時点で環境に大きく差が出ているんですね。死が逃れられないことを知識として知っている私たちが、死を回避できるかもしれないと思っていた始皇帝の晩年の行動を「狂気じみている」と否定的に見るのはいかがなものでしょうか。

前置きが長くなりました。それではこれから晋世家の翻訳に入りますが、これから題材とする晋世家後半部分に登場する人々も、絶対者天の支配下にありながら地を這いずりながら生きています。天など存在しないというのは我々の知識から得られる帰結ですが、当時の人々にとっては天は存在しています。それらを踏まえつつ、魅力的な彼らの生き様と、史記における人生哲学を感じていただければと思います。

2005年12月7日 SILVA

晋世家翻訳

武侠の人

晋の文公【ぶんこう】すなわち重耳【ちょうじ】は、晋の献公【けんこう】の子である。若い頃から士を好んだ。〔彼が〕17歳の頃には、すでに5人の有能な賢人が〔随臣として〕ついていた。趙衰【ちょうさい】と咎犯〔つまり〕重耳のおじである狐偃【こえん】、賈佗【かだ】・先軫【せんしん】・魏武子【ぎぶし】である。

〔祖父の称が長生きであったため〕献公(詭諸のこと。この時点ではまだ即位していない)が太子であったころ、重耳は成人していた。献公が即位したときには21歳であった。

献公13年。驪姫【りき】の件があって、重耳は秦に備えて蒲城【ほじょう】を守っていた。

献公21年。献公は太子である申生【しんせい】を殺した。驪姫は重耳を讒言した。難を恐れる重耳は献公に会わずに〔蒲城に逃げ戻って〕蒲城で防衛体制を整えた。

献公22年。献公は〔蒲の内部にいる官者である〕履鞮【りてい】に命じて重耳を殺させようとした。重耳は〔逃げるために〕垣を超えようとする。履鞮が追う。重耳の衣の裾が切れた。重耳は狄【てき】に出奔した。狄はもともと母親の国である(*1)。このとき、重耳はもう43歳。先にあげた五名の士が従い、ほかに名も無い男たちが数十名従っていた。

狄に着いた。狄は咎如【きゅうじょ】を攻撃したときに美女を二人入手した(*2)。年上のほうを重耳の妻にして、伯鯈【はくしゅく】と叔劉【しゅくりゅう】が生まれた。年下のほうを趙衰の妻にして、趙盾【ちょうとん】が生まれた。

狄にいること五年にして晋の献公が亡くなった。里克は〔詭諸が跡継ぎにした〕奚斉【けいせい】と〔その弟の〕悼子【とうし】を殺した。すぐに使者を派遣して重耳を迎えて即位させようとした。重耳は自分が殺されてはたまらないので国内入りを固く辞退した。晋(すなわち里克)はさらに使者を派遣して、夷吾を迎えて即位させた。これが恵公【けいこう】である。

恵公7年。〔恵公は〕重耳〔の声望〕を恐れた。そこで官者の履鞮と壮士(※屈強な男のこと。暗殺者のことか)を使って重耳を殺そうと考えた。重耳はこの情報を〔事前に〕手に入れた。そこで趙衰らと話し合った。

「そもそも私がこの狄を選んで逃げてきたのは、狄とともに立ち上がろうと考えていたからではない。ここは地理的に晋に近くて帰りやすいから、(便宜上)ここに足をとどめていただけだ。もうここにいるのも久しくなった。〔わたしとしても〕どこか大きな国に移りたいと思っている。それ、斉の桓公は能力のある人間を好み、その志は覇王のごとくで諸侯を自分の支配下に組み込もうとしている。今聞くところによればあの名宰相たる管仲【かんちゅう】や隰朋【しゅうほう】も死んだそうだ。きっと才能のある人物を欲しているだろう。斉に行かない手は無い。」

そこで斉に向かうことになった。

重耳は妻(先ほど出てきた女性)に対して言った。「私を25年待って、もし私がお前を迎えに来なかったら、ほかの男性に嫁ぎなさい。」妻は笑って答えた。「25年もすれば、私の墓の上の柏木は大きくなっているでしょうね。それでも、私はあなた様をお待ち申し上げます。」

重耳は狄に滞在すること12年で狄を去った。

亡命生活

狄を去ることから重耳の本格的な放浪生活は始まった。重耳が国内入りすれば出世できると踏んで重耳に仕えた者もいただろう。晋に家族を残した者もいただろう。しかし重耳は晋から離れることを決めた。この瞬間に、重耳は晋の公子としてではなく重耳という一人の男として歩み始める。

一行はまず衛の国に立ち寄った。衛の文公は礼を尽くしてくれない。重耳は衛を去って五鹿【ごろく】に立ち寄った。飢えたので現地の人間に乞食をした。現地人は容器の中に土を盛って差し出した(土でも食ってろという意味である)。重耳は怒った。趙衰は言う。「土を得るということは土地(国土すなわち領土)を得るということです。我が君、ありがたく頂戴なされよ。」

斉に到着した。斉の桓公は非常に厚く迎えてくれた。宗女を妻として与え、さらに4頭立ての馬車を20乗も与えた。重耳はこの大層な待遇に非常に満足した。

それから2年。桓公が亡くなった。すぐに豎刁【じゅちょう】らが内乱を起こした。斉の孝公が即位すると、諸侯らの軍が斉に押し寄せた(*3)。

斉にいること5年(つまり桓公が倒れて国内が乱れてから3年)たったが、重耳は桓公から与えられた娘が愛しくて斉から離れる意思が無い。趙衰と咎犯は桑の木の下でどうにかして重耳を晋に行かせられないかと協議した。重耳の妻の侍者(隠密か?)が桑の木の上で彼らの話を聞き、主に告げた。主はその侍者を口封じに殺して重耳に斉から離れるように説いた。

重耳は言う。「人生〔においてすばらしいもの〕は安楽のみだ。どうしてそれ以外のもの(※苦難など)を知ろうとするのか。私はこの地で一生を終えるつもりだ。〔斉の国やお前の元から〕去ることはできないよ。」

斉女は言う。「あなたは一国の王子です。窮地になったからここに来たのでしょう。多くの士(※趙衰や咎犯など)があなたを命だと思って〔仕えて〕いるのに、あなたはいそいで国に戻って労臣に報いようともせず、女の情けを懐かしむばかり。わたしはあなたのために恥ずかしく思います。あなたが(晋に帰ろうと)自分から求めようとしなければ、いつになっても上手くいくはずがありませんよ。」

そこで斉女は趙衰らと計画して重耳をしたたかに酔わせて車に乗せて斉から出してしまった。馬車が進むことずいぶんたってから〔重耳は〕目が覚めた。重耳は激怒する。戈をもって〔計画の首謀者だと思った〕咎犯を殺そうとした。

咎犯は言う。「私を殺してあなたが成功する。それこそ私が願うことです。(=私の命と引き換えにあなたが晋の主になれるなら、この命ささげても惜しくはありませんよ)」重耳は言う。「もし事が成らなかったらお前の肉を食らってやるぞ。」咎犯は言う。「事が成るかどうかはさておき、わたしの肉は生臭くてとても食えたものではありませんね。」〔この争いは〕そこでとまり、一行は晋に向かって進んだ。

英雄と凡夫と

重耳は帰国後、放浪生活において恩を受けた人には恩を返し、仇を受けた人には仇で返す。晋の公子として、重耳本人として世を回る一行に対する諸侯の当たりようは、諸侯の人となりを図るのに最適である。英雄の代表人物であった桓公は破格の待遇で重耳を迎えた。さてほかの諸侯はどうであろうか。

曹【そう】に立ち寄った。曹の共公【きょうこう】は礼遇せず、それどころか重耳の肋骨を見たいと望んだ(*4)。曹の大夫であった釐負羈【きふき】は言う。「晋の王子は大人物ですし、〔晋の国は〕我が曹の国と同姓です。窮して来られ、ここに立ち寄られた。どうして礼遇しようとしないのですか。」〔しかしながら、〕共公は〔重耳を礼遇する案に〕従おうとしない。

そこで釐負羈はひそかに重耳に食べ物を送った。その食べ物の下には宝玉を置いた。重耳は食べ物は受け取り、宝玉は釐負羈に返して去った。

宋【そう】についた。宋とは宋襄の仁【そうじょうのじん】で有名な襄公【じょうこう】が治める地である。

宋の襄公はついさきごろ大国楚との戦争に悩まされ、襄公も泓【こう】の地で戦傷を負っていた。重耳が大人物であることを聞くと、一国の主と同じ待遇で彼を迎えた。

〔ところで〕宋の司馬職にあった公孫固【こうそんこ】は咎犯と親しかったのだが、彼が言うには「宋は小さな国ですし、さきほども楚との戦いで苦しい思いをしていますから、あなたがたの国内入りを手助けするほどの余裕がありません。あらためて大国に行かれなさい。」一行は宋を去った。

鄭【てい】の国に立ち寄った。鄭の文公は重耳を礼遇したくない。

鄭の叔瞻【しゅくせん】は言う。「晋の王子は優秀ですし、それに従う男たちはみな一国の宰相たる大器です。それに鄭と晋は同姓でしょう。鄭は周王室の脂、【れいおう】から生まれ、晋は武王より生まれています。」文公は言う。「亡命王子などいくらでもおるだろう。片っ端から礼遇しておいて良いものか。」叔瞻は言う。「我が君よ、もし礼遇しようと思わないのであれば、殺すしかありません。必ずや後の災いとなりますぞ。」文公は無視した。

南国の英雄

鄭を去った重耳一行は、ついに南方の雄である楚の成王(在位:BC671〜BC626年)のもとに向かう。もっとも、南方の地は未開の地と蔑まれることもあってか楚の人々は一癖も二癖もある、狼のような存在であった。楚の成王の目に映る重耳の姿とは。

重耳一行は(鄭を)去って楚【そ】に立ち寄った。楚とは長江中流付近一帯を制する大国であり強国である。

楚の成王は〔重耳の英雄的気質を見抜いたのか外聞に従ったのか分からないが〕重耳に対して諸侯に対する儀礼で待遇しようとした。〔天下に名の知れた楚からそのような大それた待遇を受けた重耳はさすがにしり込みしてしまい〕自分はそのような大人物ではないと断った。

趙衰は言う。「重耳様、晋から亡命して国外にいること10余年です。〔今の状況を衛や鄭や曹のような〕小国ですら馬鹿にしています。大国であればなおさら〔軽く見て当然〕のことではないですか。〔それなのに〕今、楚は〔天下に名を馳せた〕大国でありながら、重耳様を礼遇しなさった。我が君、遠慮してはいけません。これは天が重耳様に道を開こうとなさっているのですよ。」重耳はそのとおり、賓客の礼でもって楚の招きを受けた。

成王は非常に手厚く重耳をもてなした。重耳は甚だへりくだる。

成王は言う。「重耳殿、もし貴殿が〔晋の〕国に帰ることができたなら、この不肖にいったい何をして報いてくれるのかね。」

重耳は言う。「美しい羽や〔虎などの〕毛皮、象牙や角、宝玉や絹織物などの高価なものは、大王には有り余っているでしょう。さてどうやって報いたらよいものやら・・・〔見当もつきません〕」

成王は言う。「そうは言っても、この不肖に何かはできるでしょう。」

重耳は言う。「もし、止むに止まれぬ事情で、広大な平地で兵馬を交えることになったとしたら、私はあなたのために三舎(※50km)兵を後方に下げましょう。」

楚の将軍をつとめる子玉【しぎょく】は〔この発言に〕大層怒って言った、「閣下、〔あなたが〕晋の公子を非常に礼遇しているというのに、今の重耳の発言は不遜です。お願いです。あやつを〔私めに〕殺させてください。」

成王は言う。「晋の公子(重耳)は優れた人物でありながら、国外でつらい状況におかれて久しく年月がたっている。従うものはみな一国を任せて良いほどの大人物ぞろいだ。これは天の仕業に違いない。どうして私が殺してしまって良いものか。それに、一度遇すると口に出した以上は簡単に前言撤回して良いものかね。」

夷吾の死

重耳が放浪を続ける間に、ついに晋の恵公(夷吾)が崩御した。国内にはまだ詭諸の息子がおり、彼らのうち誰かが後を継がねばならないような状況になった。ちょうどその頃、恵公の息子である圉【ぎょ】は、(韓原の戦の件で)隣国の秦に人質として出されていた。

〔重耳一行が〕楚に滞在すること数ヶ月、晋の太子たる圉が秦から脱走した。〔人質の勝手な振る舞いに〕秦は非常に怒った。重耳が楚に滞在していることを聞くと招こうとした。成王は言う。「楚は晋より遠く、いくつもの国を超えて、ようやく晋に到着できる。秦と晋は隣同士であり、秦の繆侯はひとかどの人物だ。重耳殿、急いで行きなさい。」

〔楚は重耳が国内入りするにふさわしいだけの準備を整えてから〕重耳を鄭重に送り出した(一国の主が帰国するに相応しいだけの十分な兵車を用意したものと思われる)。

重耳は秦に着いた。秦の繆侯は自分の宗女を妻として五人与えた(*5)。その中には圉の妻もいた。重耳は彼女をもらいたくない。

司空【しくう】季子【きし】(つまり胥臣【しょしん】のこと)は言う。「これからその国(※圉)を討とうというのに、その元妻(※圉の妻)のことなどなおさら〔気にしたところで仕方が無い〕でしょう。とにかく婚姻を受けて〔秦に好印象を与えておき〕、そして秦と仲良くなって晋国内入りを望むのです。重耳様、あなたはつまらない礼にとらわれて大きな恥辱を忘れたのですか(*6)。」重耳はようやく婚姻を受けた。

繆侯は〔重耳が婚姻を了承したことを〕非常に喜び、重耳〔一行と〕と酒を飲んだ(=宴会を開いた)。趙衰は黍苗の詩を歌った。繆侯は言う。「重耳どの(?)が早く国内に入りたがっていることが分かります。」趙衰は重耳と一緒に階段を下って下に降り、再拝して言う。「親を亡くした男(重耳のこと)が繆侯様を仰ぎ見ることは、まるで畑の穀物が一時の雨を待つようなものです。」

このとき、晋の恵公の14年の秋であった。恵公は9月に亡くなり、〔戻っていた〕圉が即位した。11月、〔圉は〕恵公の葬儀を行った。12月、晋の大夫である欒枝【らんし】と郤穀【げきこく】らは秦に重耳がいることを聞いて皆ひそかに重耳を訪問し、趙衰らとともに国に帰る様に言った。国内の協力者も大勢いた。

〔時期が来たと知った〕秦の繆侯はすぐに兵を起こして、重耳の晋国内入りに協力した。晋は秦から大軍が押し寄せてくることを聞き、また兵を出して(入国を)防ごうとした。しかしながら晋の人はみな重耳が入国する〔ことが良いという〕ことを知っていた。ただ、恵公のお膝元である呂省【りょせい】と郤ゼイの属のものは重耳の即位を望まない。重耳は出国してから19年かかって晋国内に入ることができた。時に62歳。晋人の多くが重耳サイドについた。

天の理

ついに国内入りを果たした重耳一行であったが、いよいよ晋の中枢に向かおうとする矢先において、ある人物が重耳に取引を仕掛けた。天に愛された快男児の成功は一瞬にして人為に摩り替わり、それは一人の男を重耳のもとから引き離すきっかけとなる。

文公元年の春、秦は重耳を〔晋国内に〕送り届けて、〔重耳らは〕河に至った。咎犯【きゅうはん】(すなわち狐偃【こえん】)が言う。「わたしは重耳様とともに天下をあまねく駆けてまいりました。〔その中で〕過ちも多く犯しました。私ですらそれが分かるのです。重耳様においてはなおさらでしょう。私はここで去らせてください。〔一緒に入国することは出来ません〕」。重耳は言う。「もし晋に帰国して子犯【しはん】(※狐偃の字)と協力しないものがあれば〔私は許さない〕、河の神よこれを見よ」と、璧を河に投げ入れた(*7)。

ちょうどこのとき、介子推はまだ船の中にいてこのやりとりを見た。そして〔あきれたように〕笑って言った。「天が公子をして〔晋国内への〕道を開かしめたのだ。それなのに子犯はまるで自分の手柄のように思い、主に取引を仕掛けおる。こんなに恥ずかしいことがあるか。わしは一緒にいることすら堪えられぬよ」と、そのまま隠遁してしまった。

河を渡り、秦軍は令狐【れいこ】を包囲した。晋軍は盧柳【ろりゅう】に軍を構えた。二月辛丑、咎犯は秦と晋国の 大夫とともにシュンの地で休戦協定を結んだ。

参考書籍

巻末補足

*1 重耳の母は異民族

東夷・西戎・北狄・南蛮。当時の中華人は周王室のルートから外れた人々をさげすむために自分のいる場所を始点とした別称を用意しました。自分から見て北にいれば北狄。南にいれば南蛮。当時晋の北には白狄という少数騎馬民族がおり、先々代の称が白狄からもらった娘が詭諸に嫁ぎ、重耳が生まれたわけです。白狄は力のある部族であったためそれに頼った形になりますが、重耳こと文公の随臣の代表人物である狐偃を見れば、蔑まれる民族の中にも人はいるということが分かります。

*2 女性は戦利品

当時の女性は馬と同じく男性にとっての戦利品に過ぎません。敵対勢力を攻撃して、その中に美女がいれば、勝利者が戦利品として持って帰るのが当然視されていました。戦場においてもっとも効率的なのは現地調達すなわち略奪であり、これが当然視されていた当時の中国において近代戦争における倫理感情をそのまま当てはめるのは困難でしょう。

それはさておき、今回問題となるのは妻という記述です。以長女重耳、生伯鯈叔劉。以少女妻趙衰、生趙盾。妾ではなく妻として二人の女性を迎えています。今回は異民族に対する侵略戦争の戦利品として女性を得ているわけで、身分が低いはずの女性を妻として迎えたあたり、何らかの意味もあったのかもしれません。実際重耳はこの娘を非常に愛していたようで、晋の国に帰って文公となったときに彼女を迎えにいっています。どうも重耳はこの奥さんに本気で惚れていたようです。

*3 第二の桓公たれ

宰相管仲が死に、英雄桓公が倒れ、中華最強の国であった斉は大黒柱を失います。折から野心あふれる諸侯らが一気に兵を挙げ次なる斉の地位を目指しだしました。実力のあるものが天下をとる。まさに乱世です。

*4 ただの興味か性癖か

男性女性を問わず、肌を見せるという行為は性的な意味もあり、非常に恥ずかしいこととされていました。人前で裸にすれば一生の恥辱として生命を狙うことすら考えられるような時代です。にもかかわらず曹の共公は重耳の体を見たがりました。左伝によればわざわざ風呂に入れてすだれ越しに眺めようとしたという話もあります。どうも共公は男性癖があった(ゲイだった)ようです。

*5 一夫多妻

当時の支配者は子種を残すのがひとつの責務として課せられており、当人の意思とはあまり関係なく数人の女性を妻にしなければなりません。また、権力者の妻という身分も多分に政治的な意味合いが強く、同じ妻の中でも階級が決まっており、支配者の婚姻は恋愛ではなく政治の範疇に属します。秦が五人もの女性を「妻」として与えたのは、重耳を一人の諸侯として扱っていることにつながると思います。

なお時代は少し移りますが、いわゆる三国時代における皇帝の妻の序列と社会的な地位に関しては以下の記事が参考になります。

参考記事:孫呉政権は母性社会? -- 呉書見聞

*6 ありえない発言

胥臣という人物は知的かつ温和な性格で知られる人であり、とてもじゃないですが国内入りを控えた重耳に向かってあのような無神経な言葉を吐くような人ではありません。このような激越な表現はむしろ、敬慕する父親を殺された狐偃のものと考えるほうがしっくり来ます。

田中謙二「史記」290頁以降には国語と左伝における圉の元妻と重耳との摩擦などについての記述があることを指摘しつつ、史記の著者司馬遷は、あえて上記のような書き方にしたのだとあります。司馬遷の作為をどう判断するかは十分に研究対象たりえるでしょう。

*7 重耳の誓い

河の中に何かを投げ入れるという行為についてですが、これは自分の大切なものを投げ入れることで水の神に対して制約をすると言う儀式めいた行為であり、重耳は高価な璧を河に投げ入れることで咎犯すなわち狐偃にたいして必ず恩義を忘れないぞと誓いをたてました。しかしこれは当時の世風のひとつである天意を一部では無視した行為ともとれ、介子推は興ざめして重耳の元から離れます。

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