三国志よくある質問

最終更新
2005年10月05日

基礎知識

三国志とはなんですか
最終更新
2004年12月22日

3世紀初頭〜3世紀末までの、中国における三つの国が分かれて戦った時代を記した歴史書を言います。

厳密には「三国志」というひとつの単語ではなく「三国+志」となります。「志」というものが当時の歴史書を意味し、それまでの書物が時系列に沿って「誰某が何をした、いついつに何が起きた」という編年体を取っていたのに対して、史記の著者司馬遷以降の史書が各人物ごとに人生を追って歴史を区分けした紀伝体で書かれているというもので、後者のタイプの史書が「志」と呼ばれています。

しかしながら、現代ではこの「三国志」という名前自体が一個の個性を持って一人歩きしているのが現状で、中国の話ではなくても三つ巴の戦いであれば等しく三国志と呼ぶ人もいます。日本で三国志というと、それらいくつかの三国志の中でもっとも有名な「三国志演義」を指すようです。

三国志演義とはなんですか
最終更新
2004年12月20日

陳寿著の歴史書「三国志」を元に、後世の小説家である羅貫中が作り上げたものを指して言います。娯楽の少ない時代にあって京劇や演劇は民衆に大いに親しまれましたが、三国志演義も挿絵の元に文章を書く、言ってみれば紙芝居のような形で各所に普及しました。

現代においては様々な亜種、雑本、言い伝えや伝承などが織り交ぜられ、三国志演義オリジナル以外の三国志もひっくるめて三国志演義という一つのカテゴリーに分類してしまうこともあるようです。

三国志演義は史実と異なるのですか
最終更新
2004年12月20日

はい、多くの点で異なります。とはいえ10数世紀も昔の出来事ですので史実自体がはっきりしないというのも事実です。

また、三国志演義は史実を元にした小説でありますから、かならずしも史実と同じくしなければならない法はありません。また民衆のウケが良いほうが人気も上がりますし、そういったことも含めて流動的に形を変え、史実とは違う方向に成長することもあります。しかるに、史実と異なるただ一点を持って作品の優劣を議論することはできないと思います。

人の名を呼ぶときの注意点

字とは何ですか
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2004年12月20日

通称です。この時代、ある程度の家柄にある人間であれば、家柄や血筋を示す姓と、本名である名と、通称である字を持っていたようです。この他にも○○先生といった呼び名を持っている人もいますし、あるいは幼少期に幼名を持っている人もいます。たとえば曹操は姓を曹、名を操、字と孟徳、幼名を阿瞞と言います。

字は親しみを込めて呼ぶもの?
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2005年8月2日

必ずしもそう言えるかは分かりませんが、通常は他人を呼ぶときは役職であるとか別の肩書きなどを使って呼ぶことが多いようで、そうなると名や字を使用することは考えにくいものと思われます。したがって、そこをあえて使用できる間柄というのであれば「親しみがある」ととらえることはできるかもしれません。

字が軽軽しく呼べないものであるとすることについての参考文献を一つ挙げますと、『山陽公載記』には劉備陣営に帰参した馬超が、劉備を呼ぶときに「玄徳殿」と字で呼んだことに対して、関羽や張飛が激怒し馬超を殺そうと躍起になったというような記述があります。(※もっとも裴松之は「追い詰められて帰参した馬超がそんな軽口を叩くはずが無いし、荊州の守りについている関羽が馬超の目の前にいること自体がおかしい。馬鹿げている」と全面的に否定しています)

逆に字を呼ぶことで親類のような馴れ馴れしさを持たせた一例として、孫権が配下を字で呼んだという事例もあります。字が軽軽しく呼ぶには相応しくないものであるとするなら失礼と言えるでしょうが、そのような失礼な言動でも許せるような間柄であると思わせる、親愛の情を作りたくて字で呼んだのかもしれません。どちらにせよ、あまり面と向かって言うものではなさそうです。

姓+名+字ではなく、姓+字と呼ぶのが正しい?
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2004年12月20日

名前を呼ぶことは憚られるというのが中国における言霊思想ですので、通常は姓+名+字で呼ぶような冗長なことはせずに姓+字で呼ぶようです。しかし、書物の中には姓+名+字で書き記したものもありますので、姓+字と記述しなければ100%誤りである、というわけでは無いようです。

またこれから一騎討ちをしようというような命のやり取りをする相手に向かって言霊云々を気にする必要はありません。したがって開戦前の口合戦(これは恒例です)では互いに名前をずばりと叫んで相手を罵り、非を責めます。つまり戦場で敵の名を呼ぶことは非常に理に叶っているのです。

さらには字自体もあまり面と向かって呼ぶものではないという観点からは、姓+役職、あるいは単純に役職名で呼ぶのが良いようです。つまり口頭で面と向かって話す時は名も字もなるべく避ける。それ以外の場面では便宜上字なども使う。書物に記載する時は名まで書く、ということです。

孔明だけ字で呼ばれるのはなぜ?
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2004年12月20日

三国志演義自体が蜀贔屓のなかでのお話であり、その中で三国志演義などの読み物の巻頭にある人物列挙(これは漫画本などでもよくある人物紹介と言うやつです)においても(他の人間は姓名で書かれているのに対し)孔明はただ一人、字で書かれています。あえて孔明に限って字で書いたのは「他と異なる」書き方をすることで読者に何かを想起させる狙いでしょう。実際我々が孔明を呼ぶときも諸葛亮と呼ぶのではなく孔明と呼んだほうがしっくりきます。

同様に蜀の地で発行されている伝来の書物には関羽の部分が関帝となっているそうです。三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君ですね。関羽と諸葛亮が三国志演義読者の中で人気があるため、そうなっているのだと思います。

人物評

劉禅は暗君なのか
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2005年01月27日

三国志演義が蜀贔屓である以上、最後の皇帝であった劉禅が「幕を下ろした」責任を一手に引き受ける必要があります。そのため、三国志演義が民衆に流布して以来劉禅は暗君であるというのが暗黙の了解となっています。また劉禅は「戦わずして降伏した」点や「黄皓を重用して政事をおろそかにした」点、あるいは「晋に降伏後に蜀が滅んだのを悲しまなかった」点を取って、君主としての責任に欠けると非難されます。

※ただし、黄皓自身を弁護する説もあります。これによれば黄皓は蜀漢の癌ではなく、むしろ蜀漢の崩壊を一身に食い止めていた忠臣であり良臣となります。したがって、彼を重用した劉禅を問責することは出来ません。

近年では、この劉禅暗君説に反論する説も見られ、研究が進むにつれて「劉禅自体はそれほど暗君ではなかったのではないか」と見る人も増えているようです。読者が劉禅を否定するのは感情が先に立っているからで、歴史を見るに当たって必要な客観性が無いという批判です。

あるいは曹操といえば(劉備と対比して)「董卓にも負けない悪魔のような人間である」というのが大方の認識であったのが、近年の研究で再評価され、現代では「曹操は中国史に残る大英雄である」というのが大勢の意見となりました。いずれ劉禅についても研究が進むにつれて名誉挽回のチャンスが来るかもしれません。

私個人の意見としては、悪戯に先達を辱め、愚弄し、軽んずるような行いは(研究者に限らず)あまり褒められたものではないと思います。

諸葛亮は無能なのか
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2005年05月23日

諸葛亮が実戦的指揮権を握った最初の戦闘が、かの有名な「北伐」であると言われます。この戦いでは結果的には諸葛亮は司馬懿に負けてしまうわけですが、これをとって諸葛亮は単なる政治家であって軍師ではない、戦下手の一文官風情に過ぎないんだ、と言われることは少なくありません。

もっともこれにも諸説あります。それに、そもそも戦争というのは個人個人の戦いではありませんし、結果的に司馬懿を倒せなかったから無能であるとするのは早計かもしれません。司馬懿自身も無能とは程遠い人物ですし、旗下に張郃という老練な良将がついていましたから、容易に撃退できなかったのも無理は無いでしょう。

またここ一番という局面になった折、後方で兵糧を担当させていた武将から戻るように言われて機会を逃してしまったこともあります(※C31)。あるいは一時は司馬懿をギリギリまで追い詰め、これを爆殺しようと罠にかけたものの、運悪く雨が降ったために逃げ切られてしまったこともありました。部下の失敗や天運。孔明個人の能力がそれらを補えなかったからといって、これを責めるのは道理に反するでしょう。

※C31…兵糧担当者である李平(=李厳)が呉の襲来を口実にしたのは三国志演義内における創作でした。お詫びして訂正します。(2005-05-23)

国家的な戦争において、たとえば軍馬の調達や兵士の鍛錬、あるいは民衆の慰撫や農業・商業の発展というのは全て密接に繋がっています。その点、彼の政治家としての能力は非常に高いものであり、特に国家において重要視される「法」の面においては並々ならぬ力量を示しました。彼は正しい立法と正しい司法と正しい行政を自身の手で行い、しかもそれを全て成功させています。これを見て無能と言えるかどうかは人それぞれでしょうが。

曹操は最初から奸雄なのか
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2005年10月05日

妙な書き方ですが、要するに「曹操は最初からテレビや漫画や小説に出てくるような野心家なのか」という質問です。

これに関してはいくらか議論の余地はあると思いますが、私は最初の頃は曹操も臣下としての道を全うしようと頑張っていたように思います。董卓連合軍の時も正義だ大義だと他の誰かさんが一生懸命口にしそうな言葉を必死に繰り返して孤軍奮闘してますし、以前にも曹操は自分の夢は漢王室のために死ぬことだと、言っています。どうも若かりし頃の曹操は正義感が先に立つ生真面目な好青年だったようです。

またこれは魏書にあるのですが、袁紹が勝手に皇帝を差し替えて権力を得ようとした事件(すなわち劉虞事件)の時にも、曹操は「それでは董卓と変わらないだろう」という趣旨のコメントでもって反対しています。さらに袁紹が自慢気に玉印を見せびらかした時には袁紹の邪心(すなわち野心)を目の当たりにし、「袁紹を倒さなくてはいけない」と思ったそうです。

後、曹操が献帝を迎えて袁紹に立ち向かったのは、こういった袁紹の皇帝すり替え未遂事件に対する反発もあったのではないでしょうか。そうすると「治世の姦賊、乱世の英雄」という評も、実はわりと的を射ていたのかもしれません。曹操が最初から野心家だったようには思えません。

三国志最強の漢は?
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2005年06月20日

強さの定義によると思いますが、個人的には呂布だと思います。理由は、単に彼が好きだから。

冗談はさておき、強さを戦争における武将(指揮官)としての強さととらえるならば、最強の漢には以下に挙げる4つの条件が必要だと考えます。勇気と力と実績。そして、名声(=周囲の評価)です。

呂布が常人離れした人間であることを示すエピソードは枚挙に暇がありません。董卓がとっさに手戟を投げつけたのを瞬時に回避したり、遠方に置いた戟を一矢で射抜いたり。袁紹軍が手を焼いていた張燕の大軍勢に向かって数騎で連続中央突破を仕掛けて大恐慌に陥らせたこともあります。戦神項羽もかくやと思わせるほどの活躍ぶり。「人中の呂布、馬中の赤兎」とはよく言ったものですが、彼には「飛将軍」というニックネームまでついてしまいました。まさに最強と呼ぶに相応しい漢です。

とはいえ、強さを個人の膂力として計算するのであれば、呂布は必ずしも最強とは言えなくなります。確かに彼は軍隊の指揮官としての威名はありますが、個人として見てみると、それほど武勇伝が多いわけでは無いのです。同様の理屈で関羽も最強とは言えません。関羽は呂布と同じく軍隊の指揮官あるいは人間的なカリスマ性で人や時代を越えていた畏敬の対象でしかありません。

では単純に殴り合ったら誰が強いんだ?という個人的な戦闘力に関してですが、これは典韋です。

空想科学読本にもありますが、人間の出せる力は単純に筋肉の断面積如何によります。数人でなければ持ち上げられない軍旗を強風の中一人で支えるなど、普通の筋肉の持ち主では無理です。きっと彼はものすごい筋肉マンだったはず。その証拠に、典韋は曹操が粗相をして大変な事態に陥った時に曹操を逃がすために張繍軍に立ち向かいますが、彼は矢つき刀折れた絶体絶命の場面で、自分を殺す気で襲い掛かってきた兵士を素手で絞め殺しています。

三国志上「素手で人を絞め殺した」のは典韋と孫策くらいでしょうが、孫策が戦闘意欲の無い人間を脇に挟んで殺したのに比べると、戦闘の真っ最中に自分を殺そうと全力で向かってきた人間を素手で殺してしまう典韋の凄まじさは、尋常ではありません。しかも同時に二人を相手にして、です。右腕と左腕で一人ずつ絞め殺したのであれば片手で相手したことになります。

その他の知識

孫尚香って本名?
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2004年12月20日

本名ではありません。彼女自身の名が伝わっていないので、後世の人が活劇で使用する際に尚香という名前を便宜上つけたところ、そのまま浸透したものと思われます。また三国志演義関連の書物の中でも彼女の呼び名は統一されておらず、なんとか娘々(にゃんにゃん)と呼ばれている作品もあるようです。ちなみに三国志演義では孫仁として登場しますが。

この時代における女性には、現代で言うような社会的地位はほとんどありません。といっても差別を受けているという意味ではなくて、たとえば「誰某の母親である」とか「これこれの妻である」というように男性と主軸にして考えていますから、「誰某」の部分が残っていれば人物特定は出来ますので(ことさらに)ある特定の女性の名前を書き記す必要が無かったのです。無論、ちゃんと名前が伝わっている女性もいます。ただ孫尚香についてはその例外になっていなかっただけの話です。

ちなみに社会的地位が無い=人間ではないというのは大分違うようです。家庭内においてはしばしば女性が男性を引っ張る場面もありますが、三国志においても良妻賢母、あるいはまったく逆のパターンで活躍する女性も少なくありません。とはいえ社会的に、例えばある女性がどこそこの洲牧に任ぜられるとか太守になるとか孝廉に押されるとか将軍になるといったことはありません。実際に槍や薙刀を持って戦った女性はいましたけどね。

なお孫尚香の本名として三国志演義の「孫仁」という記述を頼りにしようとする人もいますが、誤りです。そもそも仁は女性に使う名前ではありません。孫仁という人物は同時代に別に存在しており(孫早安)、あまり有名ではありませんが、孫策と孫権の弟です。つまり身内です。

孫尚香と劉備の仲は悪かったの?
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2005年05月23日

「二人が仲良しであった」と見るに足るだけの記述は史書には見当たらず、むしろ劉備が孫夫人(孫尚香)に一定以上の恐怖感を抱いていたのは疑いようが無いと思います。

もともと二人の縁談は計略から政略結婚に発展したものです。孫権サイドとしては劉備を排除するか、一定以上のデメリットを与えられれば上々という思惑があったと思います。孫夫人も女だてらに長刀を振り回す人ですから、気性の荒さは孫堅や孫策に負けてはいないでしょう。外見は良いということですが気性の荒い女性というのは敬遠されますから、要するに彼女は問題児というわけです。

劉備が孫夫人を怖れていたというのが分かる記述は二つあります。一つは孫夫人の周囲には武装した護衛兵がいたため、夜の作業の度に劉備は怖がっていたという点。もう一つは劉備の入蜀後に法正の行動が目に余るものになった時に、諸葛亮による弁明に孫夫人の名前が出ている点です。

特に後者に関しては割とひどい言い様になっています。孔明曰く、「(劉備様は)荊州にいた頃には北に曹操、東に孫権、家庭に孫夫人という大きな火種を抱えて大変苦しんでいたのだから、それを気にしないでよい環境を作ってくれた法正が私憤で人を殺そうが何をしようが良いじゃないか、多めに見よう」と。ここでは曹操と孫権の脅威と孫夫人の脅威が同レベルで論じられています。ではどういった意味で同レベルだったのでしょうか。

劉備が孫尚香と結婚した時、彼は既に齢50を過ぎていたと思います。対する孫尚香は10代後半で、さらに毎日鍛錬を欠かさず腕っ節には自信のある快男児…もとい女児です。夜の帳の中ではお互い素手なわけですから、孫夫人がその気になれば劉備を殺すことも簡単でしょう。そうでなくても劉備が仕事についている間は自由に動けるわけですから、劉禅をはじめとした公子たちに手が伸びないとも限りません。

じゃぁそんな危険人物は送り返せばよいのかというと、そうもいきません。表向き劉備は孫権と同盟者の立場にあるので、孫権の実の妹が自分の家庭内で何をしようが個人的に恐怖を感じようが、送り返すことも張り倒すこともできなかったはずです。もし力に訴えれば逆に殴り倒された挙げ句、孫軍侵攻の口実を与えてしまいます。荊州の支配が磐石でない今、劉備にとって孫夫人は腫れ物のような存在だったのではないでしょうか。

自分と後継ぎの命を狙うには絶好のポジションにいる半敵対勢力の女性。劉備が怖れないはずはないでしょう。事実、彼女は召喚命令を受けたときに劉禅を誘拐しようとして趙雲に阻止されています。孫夫人の人となりがどういったものかは伝わっていませんが、あまり思慮分別や冷静さがあるようには見受けられません。「怖い女房と弱気な旦那」という構図だと思います。もっとも当事者間に愛情が無かったとまでは言いきれませんが。

女性の名が残りにくいことの理由
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2005年08月02日

前述(孫尚香って本名?)で記したとおり、女性の社会的地位が高くないためということが考えられますが、私は「そのために編者が名前を知らない」というのが大きな理由ではないかと思います。王族や皇族クラスの婦妾になってしまうと「臣下にわざわざ名前を聞かせてやる必要」が無いわけですし、史書を編纂する人間は皇族ではありませんから「知らない名前を書けるわけが無い」ということです。

そうは言っても何かの関係で接触できるとだろうと思われるかもしれませんが、男性が女性に接近するということは性的な意味合いが強いですから、軽軽しく認めることは無いと思います。分かり易く言うと「臣下と皇女が性行為に及んだらどうするんだ」ということです。実際宮中に仕える男性は男性器を切落とさないといけませんし、嫡子が臣下との間の不倫の子だったら一大事でしょう。ゆえに身分が高い女性に普通の男性が接近できる要因は排除しなくてはならない。名前を聞こうなんてもってのほかだ、というわけです。

逆になにかしらの都合で名前が広く知られていれば後世に残る場合もあります。蔡邕の娘である蔡文姫などは当時においても著名人でありますから、彼女の名が今でも残っているのは、極端に不可思議なことではありません。

さらにもっと時代が変わると(北の文化を継いだなどで)女性重視の王朝も出てきますから、そういった時代では表に出てくる女性の名前が必然的に残ることもあります。誰某の婦妾ではなく個人として社会的に活躍すれば名前が残っても不思議ではないでしょう。ただ古代中国においては(個人としてではなく)誰某の婦妾であるというのが重要ですから、その意味で個人名が残りにくかっただけだと思います。

※以下 2005年8月2日追記

なお時代は変わってしまいますが、古代中国においては男性が正式に女性を迎える(結婚する)にはいくつかの格式ばった手順が必要となっており、その形式の中に問名というものがあります。これは結婚をひかえた男性がその女性の家に出向いて家人(通常は両親)に会い、「あなたの娘さんのお名前はなんですか」と聞く儀式です。名を問うことは結婚というイベントの中にある一つの重要な儀式であり、つまりは、名を問うこと自体が非日常的なものであるということです。逆に言うと正式に奥方に迎える気が無いのであれば名を問うてはいけませんし、もちろん答えてもいけません。紀元2〜3世期の中国においてもこの伝統はある程度は息づいていたとすると、やはり女性の名が残らないのは当然といって良いのかもしれません。

同じ正史でも内容が違う時があるのはなぜ?
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2004年12月20日

新聞もラジオも無い時代ですので、ところ変われば品変わる…ではありませんが話の食い違いはあって当然です。また正史といっても一個人が徹底的に全てを調べ尽くしてから書いたわけではなく、地方の言い伝えだとか他人の伝聞証拠だとかを元にして書かなくてはならない場面も少なくなかったはず。そういった場合に怪情報が紛れ込むのは仕方ないと思います。

とはいえ、中には「おいおいそれは無いだろ」というような話もあります。これは作者や証拠提出者、あるいは上司などが自国に有利な話をでっちあげたりすることが少なからずあったためでしょう。あるいは笑い話じゃないのかと思われるものもあります。

たとえば蜀漢の初代皇帝劉玄徳は琢県の生まれですが、曹操サイドの情報『英雄記』では、洛陽で学問を学んでいたところ曹操と知り合って一緒に反董卓連合に参加したことになっています。しかし蜀サイドの書物にはそのような記載は一切ありません。これは、暗に曹操が劉備と仲良しであるとか、あるいは上位であると言った認識を読者に与えようとしたのでしょう。

またこれは『魏略』にあるのですが、劉禅について無責任ながらも面白い話があります。これによると、劉禅の出生日はかなり早いものになっており(まだ劉備が小沛にいた頃)、長坂で趙雲に守られて南下した時には5〜6歳というそれなりの年齢になっていることになります。また長坂のときには劉禅の名前は出ておらず、小沛で劉備が曹操の襲撃に驚いて逃げる時にはぐれてしまって、そのとき一緒についていった人に売られた(!)後に方々を伝って戻ってきたことになっています。

これら一連の「劉禅出生の秘話」に対して裴松之は、「そんな馬鹿なことがあるか。よりによって200字も浪費して無駄なことを書きおって!」と気持ちよく叱り飛ばしています。意外とツッコミ上手な裴松之。なかなか面白いので是非ご一読を。

曹操の体格
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2004年12月20日

なぜか良く聞かれるので書いておくと、「痩せ型の神経質そうな細目をした男」だそうです。あるいは三国志演義などでは呂布に「どうした曹公、痩せたのではないか」といわれる場面もあります。ただ曹操自身は痩せていることは国家(※漢王朝)のために働き詰めであるからだ、と逆に誇りに思っていたようです。

鳳凰が没したから落鳳坡?
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2004年12月23日

龐統は龐徳公に鳳雛、すなわち鳳凰の雛と呼ばれました。落鳳坡は鳳凰が落ちるという意味を持ちますから、鳳雛の呼び名を持つ龐統にとっては縁起が悪いというのは誠にその通りですね。三国志演義では地名を聞いた龐統が落鳳坡という名前を聞いて驚いて引き返そうとしたところ蜀兵の伏兵に遭って戦死しています。

もっともこれは後世の創作であり、龐統が落鳳坡の地名を知るということは不可能なはずです。龐統が没した地が落鳳坡と呼ばれるのはかなり後になってからです。したがって、龐統が「落鳳坡という地名に恐れを感じて引き返す」ということはありえません。

桃園結義は無かったの?
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2004年12月23日

無かったかもしれませんし、あったかもしれません。少なくとも、正史には桃園結義が行われたと見るに足るだけの証拠となりそうな記述は見当たりません。さらに言えば、劉備・関羽・張飛の三人が義兄弟であったか否かもはっきりしません。

三人の関係が非常に密接であったであろうことを推測し得る記述はあります。蜀書:関張馬黄趙伝の中の関羽の部分にある「先主(劉備)は二人と同じ寝台で寝起きし、まるで兄弟のように親しかった」という部分です。普通親しい間柄あっても寝る時くらいは距離を置きますが、それをしないというのは互いの信頼関係がなせるわざなのでしょう。ちなみに寝床をともにすると言っても性的なものではありません。多分。

青紅の剣と倚天の剣
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2005年01月23日

青紅と倚天は曹操が鍛冶屋に作らせた名剣の名前です。「天下五剣」のうちの二振りで、曹操はこの五本の剣の内一つを曹丕に、一つを曹植に、残り三本の内二つを自分用に持っていました(最後の一本の詳細は不明)。青紅・倚天はこの五本の中で曹操が刷いていた剣の名前であると言われます。

呂布と劉備って義兄弟だったの?
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2005年08月02日

いいえ、違います。呂布が劉備を「弟」と呼んだり自分の嫁を見せたりそれで劉備があたふたと困ったりということはあったようですが、劉備も真正面から呂布と義兄弟の契りを結ぶことを了承したわけではありません。ちなみに当時の中国において「妻を見せる」という行為は、現代で言えば知人を寝床に招いて素っ裸にした嫁さんに晩酌させるようなものです。

この時代における義兄弟というものは、実の肉親よりも強い結びつきを必要とします。骨肉の争いが当たり前に行われる中で、肉親よりも信頼できる結びつき…それを結んだ人間を義兄弟と言うわけです。肉親は最初から血縁というフィルターがかかっているので協力するだけであり、赤の他人である誰某と運命を共にすることを誓い合うわけですから、建前上は「親族>義兄弟」であったとしても、実際は義兄弟のほうが実の兄弟などよりも強固な結びつきを持っています。ゆえに軽軽しく義兄弟の契りを結べるはずが無く、裏切りの常習犯である劉備が、同じく裏切りの王である呂布を信用して義兄弟の契りを結ぶ気になるとは考えられません。

もっとも、生返事で「はいはい」くらいは言ったかもしれませんけど。

用語

夷とは?
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2005年01月11日

中華選民思想からはみ出た部分の人々を示す蔑称です。古代中国においては黄帝を始祖とする「中国人」が最も尊いものであり、それ以外の人間の形をしたものは侮蔑の対象となっていたのではないかと思います。実際、中華から離れた個所で暮らす人は文化レベルが低いことも多いわけですし、「力自慢の無教養な異民族めが」という感覚は少なからずあったでしょう。

夷は正確には「東夷」と呼ばれます。こういった異民族の区分けは中華を中心に東西南北に分かれており、東は先に挙げた夷(東夷)です。西は戎(西戎)、南は蛮(南蛮)、北は狄(北狄)と言います。邪馬台国に関する記述が後漢書→東夷伝にあるのは、日本が中国の東にあったからでしょう。

なおこの蔑称は周王朝の権威が落ちてしまった時に入貢しなくなった外部の諸侯を「けしからん」と軽蔑したのがそもそもの始まりだそうです。ただ斉のように文化レベルが高いところは侮蔑の対象とはなっていません。

中華の文明……の保持者は、周王を頂点とする諸侯の国々であり、諸侯は周王を中心に……かれらに従わぬ族を討伐しつづけてきた。ところが周王朝が一度滅んでから……各地で明主らしき君主が〔登場したため〕……周王朝に入貢しない諸侯を軽蔑し……蔑称のつかい方さえきまりをつくってしまった。

(※参考:宮城谷昌光著『重耳(上)』57頁[講談社文庫])

おまけ

正史の記述が見たい!
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2005年01月15日

ちゃんとした書物は普通の書店には出てきません。よほど専門的な場所で無いと手に入りませんので、近くの大学の図書館などを当たってみましょう。

なおWEBでは三国志日本語訳が参考になります。

関連参考URI
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